佳作
『夜学へ進んだk君』
三宅隆吉
昭和二十一(一九四六)年小学校へ入学した。太平洋戦争に敗れた翌年であった。都市の大部分は空爆により廃墟となっており、日本人だけで三百十万人が亡くなった。食べ物も住まいも衣類も履物もなかった。
作家吉川英治氏は「貧しさも あまりの果ては 笑い合い」と詠んだ。自分だけでなく、皆が貧しかった。白米を腹一杯食べたいと言うのが皆の切実な夢・目標であった。
「雨漏りの 校舎で聞いた 民主主義」。教科書もなかった。あっても黒く塗りつぶされていた。先生方も大変であったと想う。軍国主義教育から民主主義教育へと変わったのだから。窓ガラスが割れ、寒風が吹く教室で授業は行われた。
同級生のk君は父親を戦争で亡くし、母、妹(花子さん)の三人家族だった。
今では考えられないことだが花子さんを背負って登校していた。授業中に泣きだすこともあった。彼は静かに席を立ち廊下で花子さんをあやしていた。すごいと感じたのは、二宮金次郎ではないが薪の代わりに花子さんを背負って本を読んでいることだった。貧しかったが、心優しい同級生は花子さんをかわいがってあげた。k君はクラスの中で一番の読書家だった。皆から信頼され、慕われる存在だった。金次郎の金をとり金さんの愛称で呼ばれていた。その金さんから私は色んなことをおそわった。本を通して学んだ彼の言葉には迫力があった。
昭和二十年代、前述の通り物もお金も少なかった。しかし、人は皆きらきらと輝く目をして、優しく穏やかだった。
中学校一年のときであった。
k君が勧めてくれたのが菊池寛の短編集であった。そのいくつかを読んで、文章の力に打たれて涙した。漢字にはすべて、ルビがふられていたので子どもにも何とか読めた。
彼は中学を卒業すると、定時制高校へと進んだ。昼は工場で勤務していた。
「作業服のまま教室に駆けつけたこともある。仕事と勉強の両立は厳しかった。何度も挫折しかけた。『おい体に気をつけろよ』と声をかけてくれた℞君、先輩の善意の差し入れはアンパンと牛乳。人々に支えられ、懸命に生きた夜学時代であった」。皆さまの温かい気持ちが何よりもうれしかったと彼は私に話してくれた。彼には年齢の違う苦学に耐えた同級生が沢山いたのだ。
高二の時、駅前のラーメン屋さんにk君を誘った。私は、定年を迎えた父から大学進学をあきらめてくれと言われ、やる気を失った旨を話した。静かに長い時間黙って聞いていた彼は静かな声で言った。「甘えるな。ご両親が高校まで行かせてくれたことだけでもありがたいことではないか。大学に行けなくとも、その時間社会人として、実務面で頑張れば大学とは違った勉強ができるはずだ。感謝の気持ちを忘れるな」と凛とした声で言った。読書により蓄えた知識と夜学で世代の違う学友から学び取った経験が秘められていた。傍で聞いていたのだろう、ラーメン屋のおじさんが黙って二人のどんぶりに、大きなチャーシュウーを二枚入れ、さらに餃子を持ってきてくれた。「俺のおごりだ」とボソッと言った。
その彼も二十年前六十歳でこの世を去った。
一生本を愛し、貧乏と闘い、友情にあつかった同級生の早すぎる死であった。葬儀の日には多くの同級生が弔問に集まっていた。
八十四歳になった今、文庫の『恩讐の彼方に』をもう一度読み返している。
『恩讐の彼方に』は主人を殺し、罪を重ね続けた市九郎が改心して二十年かけてトンネルを完成させる。その姿に感動した復讐者は自分の想いを踏みとどまる。心の底から湧きいづる歓喜に泣くしなびた老僧の顔を見ていると彼を敵として殺すことなどは想い及ばぬ事であった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手を執った。二人は其処に凡てを忘れて感謝の涙に咽び合うたのであった。
涙が滲んだ。七十年前、うす暗い部屋であふれる涙をこぶしでぬぐいながら興奮して読んだ少年の心と似たものが、体のどこかにはっきり蘇るのを感じた。『恩讐の彼方に』は、独特のリズムが心地よく胸に響く。繰り返して読んでも飽きることはなかった。流れるような美しく力強い品のある文章「男らしく正義感をもって、心豊かに生きるのだぞ」早逝した友の気持ちが込められているように感じた。よき友に出会えた。
k君の期待に沿える様に、これからも丁寧に誠実に生きて行きたい。二十年経った今でも、k君の面影は爽やかな、秋風のように私の心に深く沁み込んでいる。