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『奇跡の時間』 _読書エッセイ

佳作

『奇跡の時間』

浦千幸

 「朝読」という言葉をご存知だろうか。「朝の十分間読書」といって、全校一斉に朝の十分間を読書に充てるという、読書推進活動である。三十年ほど前に推奨された取組で、丁度あちこちの学校で朝読が導入された頃、私は大学を卒業して教職に就いた。これはその頃の思い出話である。

 私が着任したのは、近隣で有名な荒れた私立の男子高校で、新採の女子大学卒の甘ちゃんには、かなりヘビーな学校だった。

 悪戦苦闘の一学期が終わる頃、「朝読」の話が飛び込んで来た。飛び込ませたのは、ベテランの国語の先生で、「ここの生徒たちを変えるのは読書だ!」と力説された。当然、賛同者はいなかった。授業中の私語、居眠り、机の下でのケータイ…。まともに授業ができない現状に辟易していたから、彼らが黙って読書するわけないと私も考えていた。だが、その先生の熱意に押し切られ、国語の授業の最初の十分間を読書に充てることとなった。

 さてさて、どうなったか。

 「本なんかない。」「読書いらん。」

 思った通りの混沌が訪れた。教科書さえ持って来ない彼らが、読書のための本なんて用意してくるはずないのだ。

 だが、それは想定内。美味しい料理のためには下拵えが大切だ。私は夏休みに大型古書店を何軒も回り、漫画の文庫版やゲームの攻略本など、彼らの好みそうな古本をわんさか買い込んでいた。それを毎回の授業で教室に持って行った。「なんで読まんなあかんねん。」「本、嫌いや。」という真っ向拒絶反応派には「ふーん。漢字練習とどっちがマシ?」と誘ってみる。一方、「先生、これも本やしええよなぁ。」とアダルト小説や写真集をこれ見よがしに広げる者もいたが、そういった類の本は友達とわいわい、またはこそこそ楽しむもののようで?何もせずともあっさりと消えて行った。

 そして、奇跡は起こる。

 十分読書を始めて、一カ月程だっただろうか。しーんと静まりかえった教室。その中で、時折パラ、パラッというページをめくる音だけが響く。十分間の静寂。一日の中の、十分間だけの静寂があった。鳥肌が立った。一心に本に向かう彼らのその姿は、痺れるほどに崇高で格好いい。もちろん、読んでいるふりをしている者もいる、すぐ飽きて寝そうな者も。でも、誰も騒いだりしない。この静寂を破ってはいけないと肌で感じているのだろう。何も手に取れない生徒の机に、黙って本を置いて歩く。バイク好きにはバイクの本を、バスケ部員にはバスケ漫画の文庫本を。

 そのうち更なる変化が芽吹いた。「先生、あの本の続き買ってきてや。」「この本貸して。」もっと読みたいと、読書の魅力に気づく生徒が出てきたのだ。自分で本を持ってくる生徒も増えた。「これ友達に借りた。」彼女のかと思しき本は「これ、おかんの。」と言う。本が人をつなぐツールになった。教室を見渡す…。と、生徒たちはこの十分読書を各々の方法で楽しんでいた。文庫本の冒頭にある付録マンガ部分だけを読んでいる子、一年間ずっと空の写真集を見つめていた子、分厚いJRの時刻表を前へ後ろへめくっていた子。それぞれの心は、この教室を出て外の世界に広がっていたのかもしれない。

 そんなある日、「先生、これ見て!」授業前に廊下で呼び止められた。大事そうにギュッと握り締めた手には、真っ新の本があった。お薦めの本でも紹介してくれるのかと思ったが、そうではなかった。

 「先生、オレ初めて自分のお金でマンガじゃない本買ってん!」キラッキラした目でまっすぐに私を見る。自己啓発的な内容を含んだハードカバーのその本は、簡単な内容ではないだろう。二百円ほどの週刊漫画を友達と回し読みして、小遣いを節約している生徒も多い。十分読書を始めるにあたっても、本を買う必要はない、図書室や私に借りたらよいと、何度も繰り返す必要があるほどに、経済的に厳しい家庭もあった。授業料が支払われず辞めていく生徒もいたのだ。だから、千円以上するその本は、彼にとって勇気と決断のいる大きな買い物だったと思う。だけど、それだけに、マンガでもなくゲームでもなく「本」を買った自分が誇らしかったのだろう。

 「本なんて読むわけない。」そんな思い込みを持っていた私に、十分読書は奇跡をくれた。食わず嫌いなだけだ。好きなものなら食べるんだ。何が好きかわからないから読めないのだ。だったら片っ端から読んでみて、好きな味を見つければいい。自分が何を求めているのか。読書は自分を探す時間でもある。自分自身を見つめ直す時間でもある。そんなことを思った。

 十分読書で見た奇跡。あの静謐な空間、生徒たちの眼差しは、今も私の教職生活の根っこにある。十分読書の奇跡は生徒だけでなく、私自身にも変化をもたらしたのだろう。

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