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『夜の読書会』 _読書エッセイ

佳作

『夜の読書会』

小名木陽子

 様々な出来事があって、夜、眠れなくなってしまった高校生の娘。母が側にいてくれると何となく安心すると言うので、それならば、折角だし、本でも読むかということから『夜の読書会』が始まった。

 本を読む理由は、安心して眠るため。読み聞かせの本は、面白すぎてはいけない。本の内容が気になって目がさえてしまうから。素晴らしい小説もだめ。心が揺り動かされてしまい、悪夢の原因になることがあるので。時事問題をあつかった作品も同じく、不安を煽るので悪夢になりやすい。難解な哲学書や数学の本は、母の方が先に眠くなってしまう。ちょっとだけ面白くて、刺激的でなく、次第に眠気をさそうものでなければならない。

 読む本を試行錯誤して選んだ末、高校の地理の教科書を読むことに落ち着いた。教科書は、読み方によっては面白く、ほどよく頭を使い、単調さが眠りを誘う。地理であれば、その内容で心が揺り動かされることもない。また、大学受験の受験科目でもあるので、勉強をしている気分にもなり、眠りにつくことへの自責感が減るそうだ。

 しかし、教科書にも難点はあった。物事の本質を理解しようとするには不十分過ぎるのだ。なるほど、教科書というものは、先生という水先案内人のもと、学校などでみんな一緒に勉強をするために作られているのだと実感する。地理の素人である母の手元にあるのは、教科書だけ。娘からの質問に答えることはできない。だから、共同でわからないことをわかるに変えていく作業が必要になる。

 手っ取り早く、スマホで調べてしまいたいところだけれども、スマホのブルーライトの刺激は眠りに悪影響。私たちは地図帳を広げ、該当場所を確認したり、参考書を常備しておき、詳しく調べてみたりする。

 そうすると、あっという間に四十分くらい過ぎてしまうので、娘は就寝予定時間の一時間前くらいからベッドに入るようになった。娘の集中力が切れ、何となく眠くなり始めた頃、部屋の電気を消す。私は手元の電気スタンドのスイッチをいれ、その明かりで先ほど学習した教科書の部分を読む。早い時は五分も経たないうちに、どんなに長くても二十分後には、娘はぐっすり眠ってしまう。その様子は、幼児が絵本を読んでいるうちに眠りに落ちるような穏やかな様子だ。

 娘が不眠や悪夢で悩んでいることは、親にとっても苦しいことであった。つらい体験を乗り越えようとしている娘の姿は痛々しく、胸が張り裂けんばかりだったが、まず母から考え方を変えていこうと思った。

 親がわが子に読み聞かせをできる特権は、子どもが小さいうちだけと思っていたのに、思いがけず、高校生の子どもに読み聞かせをすることになった。幼児のうちの読み聞かせは、親が一方的に子どもの視点に降りてきて行うものだったが、高校生の子どもへの読み聞かせは、ほぼ対等な関係で進む。頭脳の切れのよい十代に、五十年の人生経験で積み重ねてきた知識を伝えることができる。そうして、わからないことがあれば、一緒に調べ、考える。こんな素晴らしい体験、滅多にできるものではない!

 純粋に高校地理の勉強自体も面白い。五十歳だからこそ面白い。五十歳がティーンエイジャーと学ぶからまた面白い。熊本県に台湾の半導体工場がやってきたニュースを聞けば、半導体の生産の歴史が浮かぶ。スーパーで見かけたベトナム産のコーヒー、トルコ産のオレンジ、ブラジル産の鶏肉らが地理の教科書上でつながるのだ。私ごとき人間でも、夜の高校地理の教科書読書で、世界の見え方が変わったことに驚く。世界情勢も経済も、高校地理の基礎知識なしではその理解は成り立たない。

 夜の読書の時間、地理にこめられた人々の暮らしが、地域から日本全国そして世界へと広がる。海洋と風が織りなす気候が彩る。自分の小さな部屋にいながら、地球という大きなものを学ぶことで、娘の心は少しずつ回復していった。

 今、娘は八時間熟睡した後、朝を迎えている。

 尚、娘からは、受験が終わるまで継続願いが出ており、『夜の読書会』続行中。

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