家の光読書エッセイ賞
『読み書き教室のこと』
松村智志
三十数年前、私が勤める公共施設では、週に一度「読み書き教室」が開かれていた。その教室は、文字通り近隣に住む大人の人たちが、文字の読み書きを学びに来る場所としてあった。私はそこではじめて、この社会にも「識字問題」があることを肌で知った。
教室にくる人はお年寄りが多かった。戦中戦後の混乱や、何よりも貧困によって、小学校すら満足に行けなかったという人たちがほとんどだった。子守り奉公や家業の手伝いで学校へ行けなかったというならまだしも、子どものうちから親の手で遊郭へ売られたという老婆もいた。昔は差別もひどくてねと話す、在日韓国人のハルモニもいた。
読み書きを教える方は、地元のボランティアに加えて、学校の先生が何人かいた。仕事を終えて来てくれるのだが、読み書きを教えるというより、みなさんから学ぶことが本当に多いのですということだった。
教室はいつも明るかった。おばちゃんたちはすぐおしゃべりに花を咲かせ、いつも誰かがお菓子を持ってくるので、すぐにお茶会になった。教室は夜だったので、家で作ったおはぎやおにぎりを持って来てくれる人もいた。
勉強と言っても教科書があるわけではない。まずはあいうえおから、つぎに自分の名前と住所、そして新聞やチラシを見ながら、カタカナや漢字の勉強へと進む。
学習者はみんな一生懸命で、持ちなれない鉛筆を必要以上に力を込めて握りながら、ノートやプリントで文字の練習をしていた。
おばちゃんたちは、文字を書く、文字を覚えるというのが本当に楽しいと言う。笑いながら、もうこの年やし、なんぼ習うたかて、どんどん忘れんねんけどなとも言う。
ボランティアは先生じゃないですよと言っても、おばちゃんたちはすぐに先生と呼ぶ。先生て言いたいねんと笑う。学校行ってなかったから、先生に習うのがうれしいねんと言う。
そして年に一度、ボランティアに協力してもらいながら、作文を書いて文集を作る。
「よみかききょうしつにきてべんきょうをがんばっています」と書くのがせいぜいの人もいれば、ボランティアと相談しながら、自分の生い立ちを丁寧に掘り起こす人もいる。教室のリーダーのようなことをしてくれている人は、みんなそこで初めて、自分たちは差別と貧困によって文字を奪われてきたことに気がつくのですと教えてくれた。
そして、学習者に寄り添いながら生い立ちを聞き取り、紙に記すことを手助けしながら、私たちは人間から文字を奪うことの残酷さを知ることになる。
おばちゃんの一人に聞かれたことがある。
「本ておもしろいん?」
おそらく長い人生で一冊の本を読みとおすことなどなかったであろうおばちゃんのまっすぐな視線に、ふと答えに詰まる。
それでも、一瞬ののちには笑って答える。
「めっちゃおもしろいで」
「そやかて、むずかしいこと書いたあるんちゃうん」
「いろんな本があるからなあ。絵本もマンガも本は本やしな」
「うちもいつか、すらすら本を読めるようになりたいねん」
本を読むことへのあこがれ。文字を覚えることへのあこがれの先にあるそれを、私たちは感じたことがあっただろうか。
「読める読める。新聞かてもうおおかた読めるやん。本もいっしょやで」
「せやけど、ちょっとこわい気がすんねん。なに読んでええんかわからんし」
本が「こわい」というたじろぎに、ドキッとする。本とはそういうものだったのか。
「ほなこんど、こわいことのない本持ってくるわ」
私はそう言って、笑いながらクッキーに手を伸ばす。
どんな本がいいんだろう。絵本だと子ども扱いするようでよくないだろう。短くて読みやすくて面白い物語ってなにがあるだろう。しばらくは教室で一緒に読むことになるんだろうな。そんなことを考えながら、私はおばちゃんの横でお茶をすすっていた。