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『天狗の血筋』 _読書エッセイ

佳作

『天狗の血筋』

鹿戸あゆみ

 雨の日、野良仕事のできない祖母はゆっくりと朝寝をした。そんなとき祖母は、となりに一緒に寝ていた幼い私にむかって「うちの家には、東ノ谷の天狗の血が混じっとる。でも秘密やど」と真剣な顔でよく言った。

 それはいつも、哀しい声で鳴くホトトギスや、ずる賢いイタチや、古池に棲むやさしい大蛇や、人懐っこい河童が出てくる、祖母が布団に寝転んだまま聴かせてくれるお伽話のおしまいの合図で「さて起きらんとな」というひと言とともに、祖母は働き者で真面目な、いつもの祖母にもどった。

 雨の日に聞かされる「天狗の秘密」のことは、いま思い返しても嫌な記憶はなく、ましてや祖母の面白くて哀しくて楽しくておかしな、いくつものお伽話を聴いたあとでは「この広い不思議な世界には、案外そんなこともあるのかもしれない」と幼心にも受入れていたように感じる。

 あれから半世紀、現在の私の物語好きが、この祖母の影響を受けているのは、たぶん間違いない。けれどその祖母自身は、九十八年という短くはない生涯のなかで読んだ書籍は、そう多くはなかったように思う。

 大正六年生まれの祖母は、当時の尋常小学校しか出ていなかったが、日常生活のなかで短歌や俳句を楽しみ、手紙や文章を書くのがとても上手だった。孫の習うローマ字を一緒になって広告の裏に写したり、テレビで流れる外来語をすぐに字引で引くような、知的好奇心もとても旺盛な人だった。もし祖母が現代の時代に生まれていたなら、きっと学ぶことが大好きで感受性が豊かな、読書の大好きな少女だったんじゃないかと思う。

 けれど実際に祖母が生きた青春時代というのは、現代では考えられない不便な暮らしと、愚かで悲惨な戦争があり、貧しい田舎の百姓の娘が娯楽で本を読めるような時代ではなかったのだ。

 祖母は、小学校を出てから子守り奉公として住み込みで働いた。二十代はじめに親戚に嫁ぎ、若くして戦争で夫を亡くし、気難しい舅に仕えながら、家業の蜜柑栽培で幼い息子ふたりを育てあげた。

 私の知っている祖母は、年中忙しい蜜柑づくりの合間に、春には茶の葉を摘みとって自家製の緑茶をつくり、冬には育てた大豆から自家製味噌をつくり、四季にわたってさまざまな野菜や果物の世話をしていた。蒟蒻芋から蒟蒻を、小豆から餡子を、炒り胡麻も梅干もらっきょう漬けも、スイカもピーナッツも柏餅も、みないちから手作りして、いつも私たちに食べさせてくれた。そうやってずっと家のため人のために働いてきた祖母は、もう生活のために働かなくてもいい晩年になっても、時間さえあれば暗くなるまで畑にいた。

 結局、祖母の人生の時間割には、家族に食べさせる野菜をつくる時間はあっても、自分のために物語を読む時間はなかったのだろう。

 私は最近、やっと子供も独立し、むかし読んだ本や、読みかけたままになっていた本の再読にハマっている。読む本は手近な本棚からあまり考えずに選んでいるが、不思議なことに、それら時代も国も背景もちがう文庫や単行本のいたるところで、最近たびたび祖母の姿を見るのである。

 例えば先日、二十年ぶりに読みかえしたヘミングウェイの『老人と海』では、主人公の老漁師サンチャゴが、終わりのない自分との戦いに挑みつづけ決して負けまいとする執念のむこうに、曲がった背中で鍬をふるう小さな祖母の姿が浮かんでしばらくのあいだ消えなかった。例えば独身のころに読んだきりだった森鴎外の『半日』を読み返したときには、主人公の賢母の家族に対する美しき正しさが、自分の甘えの一切を捨てずには生きられなかった祖母の美しき毅さとも、嫁である母を生涯苦しめ続けた祖母の正しき頑さとも、同じであるとあらためて感じさせられた。そして今回初めて読了したカズオ・イシグロの『日の名残り』では、主人公の執事スティーブンスが人生をかけてこだわり続ける品格というものに、祖母の内深くに生涯を通してあった静かな矜持をまざまざと見る思いがしたし、この歳で初めて読んだ梨木香歩の『西の魔女が死んだ』では、自然をありのままに慈しみ敬い、一日を丁寧に自分らしく整え、命というものに謙虚に感謝を忘れずに生きた西の魔女が、私にはまるで祖母そのものに思えた。

 祖母が亡くなってもうすぐ八年になる。最後に祖母のそばにあった本は『わたしと小鳥とすずと』という金子みすゞの詩の本だった。

 それは、病院のデイケアでみすゞの詩を聴いた祖母が「なんだか、子供ん頃を思い出した」と言うので私が買って届けたものだ。

 今でも、みすゞの詩を読むと、おかっぱ頭の澄んだ瞳の少女が少しうつむき、はにかんでいる姿が目に浮かぶ。その少女は、やはりどこか祖母に似ているのだった。

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