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『雨の日』 _読書エッセイ

佳作

『雨の日』

萩谷好美

 私は雨の日が好きだ。雨の日は大体、家にこもって、ふかふかの蒸しパンを口にほおばり、ゆっくり本を読んで過ごす。そうして過ごす時間は、静かにゆっくりと流れていき、私は落ち着く、ほっこり、おだやか、言葉では難しいのだけれど、何とも言えないふっくらした気持ちになる。

 小さい頃、父は早朝から夜中まで忙しく、母はとても真面目でせっかち、少し心配性な性格だったから、私たち子ども2人を育てるのに朝から晩まで一生けんめい動きまわっていた。早起きして温かい味噌汁とおにぎりをつくり、私たちを保育園に送り、庭の植物をきれいに手入れし、父のワイシャツにアイロンをかけ、安いスーパーまで自転車を一生懸命漕ぎ、決して余裕があったわけではないだろうに、夜ごはんにはたくさんのおかずが食卓に並んだ。

 私が保育園で絵本の時間がいちばん好きだと両親に話しをした日から少しして、両親は玄関に大きな本棚を置いてくれた。本棚には少しずつ本が増えていき、母が庭仕事が出来ない雨の日に、私をひざに載せて絵本を読んでくれるようになった。母は絵本を読む時も一生けんめいで、一節一節ていねいに、まるで絵本のキャラクターが話しているように、気持ちをこめて読み聞かせてくれた。私は母に絵本を読んでもらうことで、見たことのない生き物や大きな怪獣と出会い、広い海で泳ぎ、大きな山を登り、行ったことのない国に行ったり、空を飛ぶことだってできた。

 電化製品の設計を仕事にしていた父が、ある日ラジカセを買って帰ってきた。カセットテープを入れて「録音」ボタンを押し、父が私の名前を呼び、「再生」ボタンを押すと、また父の声が私を呼んだ。まるで魔法を見たように私は驚いて、カセットテープをひとつもらい、大きく自分の名前をマジックペンで書いた。当時私は絵本の『ぐりとぐら』が大好きで、正確には『ぐりとぐら』を楽しそうに読んでくれる母の声が大好きで、次の雨の日に母が『ぐりとぐら』を読みはじめたら、そっと「録音」ボタンを押そう、心に決めた。

 次の日も、その次の日も、その次のその次の次の日もなかなか雨はふらなくて、その次の次の次の日、やっと雨がふった。私は嬉しくて、母にぐりとぐらの絵本を持って駆け寄った。母は早起きして、たまご色のふかふかの蒸しパンをつくってくれていた。小さい頃、皮膚があまり強くなかった私に、母はよく手づくりのお菓子をつくってくれた。なかでも母がつくる少し大きな丸くてふかふかした蒸しパンは、まるでぐりとぐらがつくる大きなカステラのようだったから、私はその丸いふかふかが大好きになった。まだ温かい蒸しパンをひとくちほおばって、絵本を母に渡してひざにのり、私は「録音」ボタンをぽちっと押した。「ぼくらのなまえはぐりとぐら このよでいちばんすきなのは おりょうりすることたべること ぐりぐらぐりぐら・・・」。楽しそうな母の声を聴きながら、私はぐりとぐらと、森のなかまたちと一緒に黄色いふかふかを食べた。

 十八歳と十カ月になった時、私は父と母の家を出て、東京の大学へ通うためひとりで暮らしはじめた。あまり整理整頓が得意ではなかった私は、部屋にあった必要であろう物たちを、いくつかのダンボールにぐしゃっと詰めてふたをして、東京まで運んだ。大学へ通い、アルバイトをし、慣れない暮らしだからなのか、ひとりだからなのか、東京の暮らしは何だかとっても忙しくて、部屋の片隅にいくつかのダンボールが積まれたまま、しばらくの時間が過ぎた。

 ある休日、その日は朝から雨がふっていて、その前の日に私はとても寂しい気持ちになって、わんわん泣いていたから、目がぷっくりと腫れていて、起きるのがやっとだった。さっきまでくるまっていた毛布を四角に折って、ベットのはじっこに寄せ、私はまたころんと横になった。目線の先には積まれたダンボールが見えた。気分転換に本を読んでみようと、「雑貨」と書かれたダンボールから本を探していると、小さい頃父が買ってきたラジカセと、マジックペンで大きく私の名前が書かれたカセットテープが出てきた。カセットテープをラジカセに入れて、「再生」ボタンをぽちっと押すと、「このよでいちばんすきなのは おりょうりすることたべること ぐりぐらぐりぐら・・・」。母の楽しそうでやさしい声が部屋いっぱいに流れた。

 私は昨日いっぱいこすった目をまたこすりながら、水色の傘を勢いよくさして、かかとをつぶしたスニーカーを急いで履き、近くのスーパーへ走った。「黄色いふかふかを食べよう。母と、ぐりとぐらと、森のなかまたちと。」そう思いながら。外と目にはたくさん雨が降っていたけれど、走る足とお腹の中はなんだかとっても軽やかだった。

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