優秀賞
『陽光あふれて』
金子美知子
車窓に相模湾の海が広がった。「わあっ!」と声が出そうになる。見慣れている海が今までになく透明な群青に見えた。柔らかな晩秋の日差しに光のかけらがキラキラ跳ねる。「なんて鮮やかな」と胸が高鳴る。前日に右目の白内障手術を受け、その日は術後診察で眼帯が外れた帰りだった。
術後はうれしいだけではない毎日が続く。右目に続いて三週間後に、左目の手術を控えているからだ。細菌感染など目に問題が起きないよう、幾つかの注意があった。その中で、読書の禁止は想像以上につらかった。
読書は、子どものころからの習慣であり楽しみだった。とりわけ一日の終わりに、音楽を聴きながらベッドで本を読むのは、至福の時である。これは多分幼いころに、母が絵本の読み聞かせをしてくれた名残りだろう。母の声を聞きながら物語の世界で眠りにつく。幼い子には心地よい時間だ。その延長線上の音楽と読書だったように思う。
できるだけ目を使わないように、ラジオと音楽を聴いて過ごした。落語を聴いて楽しむ工夫もした。何か物足りない。一日はこんなにも長いのかと、だんだん退屈になってる。遠出が難しく友人に会えないなら、せめて本が読みたい。
「先生、読書は三週間禁止なんでしょうか」
と、受診日に担当医に聞いてみた。
「読書がいけないのは、うつむき姿勢になるからなんですよ」
「じゃ、仰向けならよいですか」
「うぅん、短い時間にしてくださいね」
と先生は笑った。
書棚で文字の少ない本を探した。ちょうどよい本が見つかった。『金子みすゞ名詩集』だ。随分前に読んだきりの文庫本。ベッドに仰向けになり、一編一編、声を出して読んだ。文字を読むことが新鮮だった。みすゞの世界は優しく心地よい。魚や虫も、人や花、小鳥のように、命あるものとして慈しむからだろう。彼女の世界には海もある。
二年前、仕事を辞めた私は、にぎやかな横浜の街中から、相模湾を望むひなびた町に移住した。それからは毎日のように海辺を散歩する。そのせいか彼女の描く海を身近に思う。「大漁」という詩にはハッとした。みすゞは、大漁を祝う漁師たちの浜から、魚たちが鰯の弔いをする海の中へ視点を転換させる。人どうしの幸、不幸の表裏は考えても、人間の慶びが魚の悲しみになるという視点は、私にはなかったからだ。
十二月初めに左目の手術も終わった。年明けから日常生活が少しずつ元に戻る。読書習慣も取り戻した。ただそれだけのことが無性にうれしい。私は書棚から、松本侑子著『みすゞと雅輔』を取り出した。以前一度読んでいる。その時は、金子みすゞの生涯を知りたい気持ちが先立っていた。今回は、彼女が詩(童謡)に込めた思いや背景を理解したいと思った。
金子みすゞは、昭和初期に二十六歳で亡くなっている。短い生涯であり、童謡雑誌への一投稿者に過ぎない彼女に関する資料は乏しく、著者の松本さんは調査に苦労されたようだ。九年前に実弟、上山雅輔氏の日記など膨大な資料が見つかった。松本さんは、それを読み解き本書を完成させた。私は松本さんのおかげで、雅輔さんに出会い、彼の目を通して金子みすゞに出会えた。同時代を生きていなくても、こんなふうに多くの人と出会える。それが読書なのだ。
金子みすゞの詩そのものも、日本が戦争に突き進んだ歴史のなかに、長い間埋もれていた。それが一九八〇年代後半に世に出たのは、彼女の詩に、時代や場所を超えた普遍的なものがあるからなのだろうか。
「蜂と神さま」の世界観に共鳴する人は多いと思う。蜂は花のなかに、花は庭のなかにと、視界はどんどん広がり、日本は世界のなか、世界は神さまのなか、その神さまは小さな蜂のなかに宿るという詩。私は心が安らぐ。
「明るい方へ」は、彼女の心が死へと傾く時期に書かれたと知って驚いた。やぶ陰の草は一枚の葉でも陽がもれる明るい方へ向く。植物は生きようと陽光に向かうのだ。そのことを書いたみすゞも、明るい光を求めて生きようとしたのだと感じる。松本さんの『みすゞと雅輔』を読んで、みすゞの詩に寄り添えた気がした。
彼女の詩集を読んだのは、読書を禁止されたことがきっかけである。白内障はシニアの大半がなる目の病気で、手術もそれほど大変な体験ではない。だが、私は術後が憂うつだった。その時期に、こんな出会いが用意されているとは思わなかった。私も無意識のうちに「明るい方へ」向いているのだ。
海辺に出てみようか。空気は冷たくても、暖かな陽光があふれているのだから。