佳作
『立ち読みしてもいいですか?』
坂本ユミ子・兵庫県・65歳
私は大型書店を見ると、磁石に引き付けられるように入って、立ち読みしてしまう。三十分ぐらい立ち読みするのだが、出るときにちょっと罪悪感に駆られる。
本を盗むと万引きで捕まるが、長時間の立ち読みはそれに近いのでは?私は大型書店しか立ち読みしない。小さな個人経営の本屋さんで立ち読みは出来ない。それは子供の頃の出来事がトラウマになっている。
私が小学生だった頃、本屋さんは町に一件しかなかった。駅前から続く商店街に、中年の夫婦が経営している小さな本屋さんがあった。壁に「立ち読み、お断り」の張り紙があったが、漫画の本を立ち読みするのが楽しみだった。
おばさんが店番をしているときは、
「『立ち読みお断り』て、書いてあるやろ!」
と叱られるので、立ち読みしないように気を付けていた。おじさんが店番のときは何も言わないので、そのときを狙って立ち読みするようにしていた。
少女フレンドやマーガレットなどの少女漫画雑誌は、週刊なので毎週新刊が出る。別冊も出る。買って帰って家でゆっくり読みたいが、母に買ってほしいとは言えなかった。
昭和三十四年、父が交通事故で亡くなった時、母は三十二歳だった。姉は六歳と四歳、私は二歳だった。母は生命保険の外交員で生計を立て、女手一つで三姉妹を育ててくれた。
母の給料日前、米櫃が空だったこともある。給食費を払えなくて恥ずかしい思いをしたこともある。我家は常に金欠病だった。
「お母ちゃんに何か買ってほしいって、言うたらあかんで!」
上の姉に釘を刺されていた。
ある日、おじさんが店番だったので、いつものように少女漫画を立ち読みしていたら、いきなり頭の上から怒鳴り声がふって来た。
「また、あんたか!『立ち読みお断り』て、書いてあるやろ!字読めへんのか!」
いつの間にか店番がおばさんに代わっていた。漫画に夢中で気が付かなかった。おばさんは鬼の形相で、 「売り物に、さわるな!」
私から漫画本を取り上げた。私は泣きながら走って家に帰った。
仕事から帰って来た母に本屋さんでの出来事を話した。そんなことぐらいで、怒鳴らなくでもいいのに―と言ってくれるかと期待していたら、
「それは、あんたが悪い。明日、いっしょに謝りにいこう」
翌日、母は私を連れて本屋さんに謝りに行った。
「この子がいつも立ち読みして、すみません」
母は本屋のおばさんに頭を深く下げた。母の隣で私も「ごめんなさい」と言って頭を下げた。おばさんに頭を下げる母を見て、私は深く反省した。
「買ってやればいいのに買ってやれなくて。もう、立ち読みをしないように言い聞かせましたから」
私はもう一度「ごめんなさい」と言って頭を下げた。おばさんは昨日とは別人みたいに優しい顔になって、 「私も、怒鳴ったりして悪かったね。一番上の本をちょっとだけなら、立ち読みしてもいいけど―」
母は首と手を同時に振りながら、
「いえいえ、とんでもない」
しばらくして本屋さんの張り紙は「十分以上の立ち読み、お断り」にかわったが、私は立ち読みすることはなかった。
あれから五十年以上の月日が流れた。大型書店では椅子やテーブルが置いてあって、座り読み出来る所もある。いい時代になったものだ。
本屋さん側からすれば「試し読み」で、買ってくれればよし―だが、めったに買わない私は、「座り読み」はちょっと厚かましい気がして出来ない。