優秀賞
『嫁入りした本』
中村実千代・栃木県・67歳
金銭が自由にならない父は、一か月に一回の床屋代と、ひと箱のたばこ銭くらいしか手元に無かった。その父が私の八歳の誕生日に、突然、「本でも買ってやろうか」と言ったとき、私は隣にいる母の顔を盗み見した。
秋晴れの空が誕生日を祝ってくれているような気持ちのよい日だった。店から父がくたびれたサンダルをつっかけて出てきたので、私はそのあとをついて行った。老舗の書店までは歩いて十分くらい。町の一番賑やかな通りを歩き、左に曲がったり右へ折れたり。父は、めったに外出をせず店の作業机の前にじっと座っているから、迷うことなく速足で歩いて行く父の姿を、不思議なものでも見るように眺めながら、とぼとぼと歩いた。
歩道の奥にその店はあった。私は、この店を遠くから眺めたことはあったが中に入ったことはない。父母もきょうだいたちも、本を読むという習慣はなかったし、小さな店を切り盛りして倹しく暮らしている両親には、本なんて高価なものを子供たちに買い与えるような余裕はなかった。だから、「本を買う」ことは、私には夢のようなできごとだった。
店内には、インクのにおいが満ち満ちていた。どこを見ても本ばかり。歩いている通路にも本がうず高く積まれ、私の紺色のスカートの裾が触れると、本の角が生き物のようにすっとずれた。「あっ」と声をあげてずれた本を直そうとしたら、ひときわ大きくて分厚い本が手に触れた。何気なく手に取ってみる。
その本の表紙には、真っ白な背景に、黒い服を着た金髪の男の子が、腰の赤いリボンをなびかせながら今にも走り出すような姿勢で描かれていた。青い瞳が長いまつ毛の下で潤んでいる。思わず「きれいだなあ」と呟いた。傍らの父がのぞき込む。「これがいいのか?」
私はすぐに「うん」とは言えなかった。なぜならその本は、ほかの本よりも大きく、表紙も中の紙もしっかりしていて豪華だったから、値段が高いことくらい想像がつく。父は、私の手から本を取り上げると、裏返して値段を見ようとした。
「おおっ! 見てごらん、こっちにも表紙があるぞ」
父が屈んで私に裏を見せた。そこには、金髪の女の子が、白いドレスに桃色の帯を結び、同じ色の大きなリボンを髪に結んで花を摘んでいた。男の子と同じ青い瞳が真ん丸に描かれ、金色の髪の先が、くるくるとした巻き毛になって風に揺れている。『小公子・小公女』という題名のその本は、表と裏の表紙からそれぞれの物語が始まる珍しい本で、表紙の絵も素晴らしかったが、中の挿絵も、寸分たがわず美しく細やかだった。
ぐずぐずしている私に父は、「こんなに綺麗で、珍しい本は滅多にない」と言って、「気に入ったんだろう?」と、頭を撫でた。ポケットから札を取り出して支払っている父は、いつもよりも大きくてかっこよく見えた。
帰りは父の腕に片手でぶら下がるようにして歩いた、胸に花柄の包みを抱いて。行きは無愛想だった父も、私の笑顔を見下ろしながら微笑んだ。
毎日、学校から帰ると『小公子・小公女』を開いた。小公子と小公女が、幸せな生活から不幸のどん底に落ちてゆく顛末をはらはらしながら読み進めると、自然と涙がこぼれた。貧しくとも両親が揃っている自分を幸せな子供だと思った。お金持ちのおじいさんに引き取られてゆく場面では、ほっと胸を撫で下ろしたが、どんなにお金持ちになっても親が居ないのは淋しいだろうなと、いつまでも悲しかった。私の宝物は『小公子・小公女』の本。寝る時も、起きてからも、毎日美しいページを開いてはため息を吐き、いつかは、小公女のような可愛い女の子になり、小公子のような男の子と出会いたいと夢見ていた。
父は、本の内容を聞くことも、私が読んでいる姿を見ることも無かった。相変わらず店の作業机の前に座って、利益の少ない商売に黙々と取り組み、娘に本を贈ったことなどすっかり忘れてしまったように見えた。
あれは、私の結婚式の日。式が終わりホテルのロビーへ出て行くと、ソファーに座っていた父が小走りに近づいてきた。顔をくちゃくちゃにして私を見つめ、両手で私の手を包んだ。
「淋しいよう、淋しくてたまらないよ。遊びに来てくれよ、きっと、遊びに来てくれよ」
父はすっかり小さくなって、幼子のように手放しで泣いている。
「お父さん、ありがとう。誕生日の日に贈ってもらった本は、一緒に嫁入りしますからね」
父は「うん、うん」と頷いて、握った手に力を入れた。
あの誕生日から六十年。父はもう居ないが、本が結んだ父と私の大切な思い出は、けっして色褪せはしない。