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『終わらない冒険』 _読書エッセイ

読書エッセイ賞

『終わらない冒険』

塩田きよら・東京都・21歳

 幼少期の私が一日で一番好きな時間は、寝る前の三十分だった。風呂から上がると私はいつも大急ぎでパジャマを着て、歯を磨いて、ベッドへ駆けた。私にとってそこはただ眠るための場所ではない。母が物語を紡ぐ舞台だったのだ。

 私の両親は共働きで、とりわけ母は忙しく働いているひとだった。毎朝私が起きる前に家を出て、帰ってくるのは夕飯を食べ終えたころだっただろうか。家に仕事を持ち帰ってくることも度々あった。そんな生活のなかでも、母は寝る前の読み聞かせだけは欠かさなかった。温かい布団のなかで目を閉じながら、母が語る物語に浸る時間が私は大好きだった。

 ベッドのなかで聞いた物語は数えきれないが、そのなかでも私のお気に入りだったのが『おしいれのぼうけん』だ。この絵本の主人公は、当時の私と同じ保育園児の「あきら」と「さとし」。おしいれに閉じ込められた二人は、そのなかに広がっていた世界を冒険していく。全部で八十ページもあるこの絵本は、当時の私には途方もなく長く感じられた。もっとも、その理由はページ数だけではない。母の読み聞かせは少し特別だったのだ。

 その夜も私が布団にくるまって待っていると、部屋着に着替えた母がやってきた。手にはもちろん『おしいれのぼうけん』。母はいつも通り私の隣に寝ころんで、本を開く。

「さくらほいくえんには、こわいものがふたつあります。ひとつはおしいれで、もうひとつはねずみばあさんです。」 何度も聞いたこの冒頭を私は今でも空で言える。冒険のはじまりを告げる、胸躍る一節だ。当時の私の気持ちも例に漏れず昂っていた。

 ベッドの上で物語は進んでいく。おしいれの壁の模様がゆがんで、あと少しで主人公たちがおしいれから別世界に飛ばされるというときだった。母の滑舌が段々とおぼつかなくなってきた。同じ文を二回読んだり、読み飛ばしたり、語尾なんかも消えかけそうだ。私は「やっぱり今日もだめか」と苦笑いした。とうとう母は目を閉じてしまった。

 これこそが、私たちがいつまでたっても『おしいれのぼうけん』を読み終わらない理由だった。母は朝から晩まで働き詰めだったのだから無理もない。けれど、そこでやめてしまわないのが母の凄さだ。目を瞑ったまま、母は物語の続きを語り始めた。

「おしいれの壁の模様がゆらゆらゆれて……気が付くと二人は、広い海に浮かぶいかだの、その上にいました」
「ええっ、いかだ? 海?」
私は思わず声を上げた。さっきまで保育園のおしいれのなかにいたふたりが、なんの脈絡もなく海の上に飛ばされてしまうなんて。
「そう、海。そこで二人は魚をたくさん釣って、歌を歌って過ごして……嵐に流されて……そして知らない島にたどり着きました。そこで二人はお寿司屋さんをはじめて、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし……」
母の声が小さくなっていく。
「待ってよママ、ねずみばあさんはどうなったの? 二人は保育園には戻らないの?」
私がいくら叫んでも、母はもう夢のなかだった。仕方がないから二人がつくった南の島のお寿司屋さんのことを考えているうちに、気が付けば私も眠りに落ちているのだった。

 こんなふうに母と私は、『おしいれのぼうけん』に出発しては遭難する夜を何度も繰り返した。あきらとさとしの二人は、母の気まぐれによって近所のスーパーから宇宙まで、ありとあらゆる場所に飛ばされたし、私の心も彼らと一緒に旅をした。

 結局私が『おしいれのぼうけん』の本当の結末を知ったのは、高校三年生の時だ。受験勉強のために訪れた図書室であの懐かしい黒表紙と再会し、私は夢中でページをめくった。当時はあんなに長く感じた八十ページがあっという間だった。なるほど、これが二人の冒険のすべてなのか。長年の疑問が晴れた爽快感と同時に、ほんの少しだけ寂しさを感じた。本当の物語を知ってしまったら、母が語ってくれた「おしいれのぼうけん」の数々が偽物になってしまうような気がしたのだ。

 違う、と今ならはっきり言える。もちろん絵本の結末はただ一つだろう。だけどあの夜、「私の」おしいれのなかには確かに大海原が広がっていた。砂漠があった。雪山があった。ありとあらゆる世界を、母と一緒に冒険した。そこで感じた胸のときめきは、紛れもなく本物だったはずだ。

 あれから十年以上の歳月が流れて、私は大学生になった。大学では文学を研究している。読む本がどれだけ難解になっても、私を突き動かすものはあのころと変わらない。物語のなかに深く入り込んで、知らない世界を冒険する楽しさだ。きっとこの気持ちこそ、私があの「おしいれのぼうけん」で手にした宝物なのだと思う。いつまでも光り輝く思い出をそっと胸にしまって、今日も私は冒険に出る。

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