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「薬師堂の架け橋」 _読書エッセイ

佳作

『薬師堂の架け橋』

片山ひとみ

 「あんたらぁ、字が読めるんかな。ふん」

 不意に背後から響いた冷たくしわがれた声。

 一つ違いの小学生一年生の妹と振り返った。

 当時、父の実家があった岡山と兵庫の県境の山村へ父母との四人で引っ越したばかり。

友達もまだできず、春休みの昼さがりの連日、新居裏の薬師堂で二人、本と過ごしていた。

 「毎日、本ばぁ読んで。自慢しょんかな」

 薬師堂防火用井戸の端の大石に腰をかけた白髪の老女だった。長いキセルを吹かせている。団子にしてまとめ上げた白髪とは対照的な派手な赤い色合いの着物。地味目のグレーの羽織はあるものの、威圧感にたじろいだ。

 「読めるもん。平仮名じゃから簡単じゃが」

 気の強い妹は、立ち上がって絵本を向けた。

 薬師堂の巨大な銀杏の樹の下は、春の木漏れ日が心地よく、母が用意してくれたブルーシートを広げ、二人で寝そべり、時を忘れ本を開いた。ページに躍る、光と銀杏の葉の影。

 チロチロと動く模様が、本の中へ遊びに来た小人のようでたまらなく楽しい時間だった。しかし、思いがけずも夢の時が打ち砕かれた。

 「あんたは、何読んどんかな。分厚い本を」

 老女は、キセルで私の本を指した。

 「あぁ、『杜子春』じゃ。お母さんが好きな本」

 声を震わせて返す私に、

 「お母さん? ふぅん。おもしれえんかな」

 老女は目を細め、斜めに睨むように見た。

 「おもしれえよ。杜子春いう男の子に、色んなことが起きるから、ドキドキする本じゃ」

 私は、おどおどしながらも、精一杯の声で答えた。その瞬間、妹が私の本をもぎ取り、

 「おばあさん。読みたかったら貸したげる」

 と、シートから靴下のまま老女に駆け寄り、グッと目の前に差し出した。

 「ふん。いらんわ。読めるんじゃったら、もう買うとうるわ。生意気な子じゃな」

 老女は、瞬間的に顔を横にそむけた。

 妹は驚いたように体を硬直させた。

 「読めんのじゃて。お姉ちゃん、帰ろうや」

 妹が私に本を戻してきた時、

 「少しでええから、本を読んでくれんかな」

 老女は、そっぽを向いたまま低い声で言った。キセルの煙が、小刻みに吹き上がった。

 「放っとかれ、あんな意地悪な人。もう帰る」

 妹はブルーシートを畳もうとしていた。

 私は、ふと、全盲だった祖母を思い出した。

 「読みたいけど、もう、本の世界へは入れん。じゃから、子どもの本でも読んでもらえると嬉しいんよ。別世界を旅できるんじゃもん」

 私が絵本を読むたどたどしい言葉に目を閉じ、うなずいたり微笑んだりしてくれた祖母。

 「ええよ。読んだげる。このシートへ来てん」

 私は老女を手招きした。老女は、

 「なんで私がそこへ行かんといけんのか」

とブツブツ言いながらもキセルの火を完全に消し、シートへ草履を脱いで上がり正座した。

 「お母ちゃんに言うてくる。変な人が来たと」

 妹は運動靴をつっかけ履きし走って行った。

 「どこからがええ? お金を使い果たした杜子春が老人に出会ってな、自分の頭の影の所を掘れと言われ、そうするとお金が出てな」

 老女は、「ほう」と感心したように呟き、

 「最初から読んでもらえんか。聞きてぇわぁ」と、銀杏の樹を見上げた。その首に、無数のシワとシミが浮かび、また祖母を思い出した。

 「間違えたらいけんから、ゆっくり読むよ」

 私は、まるで祖母が隣にいるような思いで、一行一行、噛みしめるように読み進めていく。

 老女は、「放蕩息子やな。又、金を無くして」、「虎と大蛇にも声を出さんのか」と、展開するたび、独り言を繰り返した。

 私の拙い音読が、見ず知らずの年上の相手を本の世界に誘い、時間と空間、情景や感情を共にしているのが不思議でならなかった。

 同時に、それほどの魅力が、一冊の本を架け橋にして生まれるのだと知り、子どもながらに嬉しく誇らしく、次第に胸が熱くなった。どんな相手とも本で繋がる魔法のようだとも。

 「ほれ、この人。どうしたらええ?」

 妹の息せき切った声と共に、母が白い割烹前掛け姿のままやってきた。母はいきなり、

 「あぁ、藤ばぁさん。娘が無礼をすみません」

 と深々と頭を下げた。老婆はかぶりを振った。

 「何も悪りぃことはしとらんよ。ええ子じゃ」

 妹だけが腑に落ちない顔で私を見た。

 「よかったら、うちで本の続きを。村のことは藤ばぁさんに聞けと。色々教えてほしいし」

 母の平身低頭な姿に、藤ばぁさんは、「それはいらん。続きは明日、ここで読んで欲しいんじゃ。村のことは知らんよ」と微笑んだ。

 私は何回も頼まれて、杜子春を朗読した。馬になった母が鞭打たれる姿に、杜子春が、「お母さん」と我慢し続けた声を発する場面で、必ず涙した藤ばぁさん。亡母と妹と当時を思い出すたび、藤ばぁさんの「本とのご縁がありがてぇ」が蘇り、幸福と充実に包まれた。

 本が、「黙読の楽しみ」と「朗読で誰かと繋がる喜び」を生む貴い架け橋と知ったから。

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