佳作
『旅立ちの文庫本』
大月ちとせ
その本屋は、商店街のアーケードが途切れた場所にあった。晴れた日は、陽を受けて光り、雨の日も濡れて輝いていた。
父が私をそこへ連れて行ったのは、小学六年の冬休み、祖父母の住む町にUターンすることになり、建てる家の外観が見えてきた頃だった。
私は、引っ越しが嫌だった。
夕暮れになると風に乗って聞こえてくる金管楽器や木管楽器の響き。ホルンだろうか、繰り返される軽やかな同じフレーズが、吉備路の古墳の森に吸い込まれていく。中学生になったら、吹奏楽部に入りたかった。だから二人の姉も通ったその中学校に、自分だけが行けないという事態が飲み込めずにいた。しかも、大学生の姉たちは二人で岡山に住むという。自分だけが田舎に引っ越すなんて理不尽ではないか。私は、ずっとふて腐れていた。
父は本屋に入ると、ぼそっと言った。
「今日から、文庫本を読みなさい」
意外な一言だった。
家計は豊かな方ではない。しかも、相当の金額を工務店に支払った帰り道である。何か買ってもらえるなど思ってもみなかった。
文庫本を買ってもいいなんて。
今までは、小学生向けの文学全集。他に読みたくなったら、学校の図書館で借りてくるだけだった。どれもハードカバーで重くて、ランドセルにも収まらないから、手に持ち、歩きながら読んで、家に着く頃には読み終えることもしばしばあった。文章を過剰に説明するような挿絵も、そろそろ苦手になっていた。この絵、なからましかばよからましと、読みながら何度も思ったものだ。
手の中に収まって、挿絵など極力無い文庫本は、私にとってもう一つの憧れだった。
「ほんとうに、買ってくれるの?」
「うん。自分で選びなさい」
これはすごい。こんなこと、滅多にない。初めての文庫本。どうしよう。何が読みたい。小さな本屋の文庫コーナー、数は知れている。けれど、これら全ての中から、一冊を、自分で選んで良いなんて。なんという幸福だろう。
私は、ひたすら背表紙を読んで歩いた。一冊ずつ、丹念に。手に取るなどおこがましい。題名の一つ一つが、美しく、格調高く呼びかけているようで、それを読むだけで、ひたひたと心が満たされて行くのを感じた。
いつもはせっかちな父が、この日に限って「早くしろ」と言わない。私から少し離れて、本屋のご主人となにやら談笑している。今までは、これを読めとかあれは下品だとか、いちいち難癖をつけていたのに。
ちょっと不安になって、聞いてみた。
「どれにしたら、いいかなあ」
すると父は、にやっと笑って言った。
「迷うのも、楽しいもんだ」
なんの答えにもならない。これは当てにならんわと思った時、ふと、気づいた。
これは、儀式だ。
姉達を見て、その通りにまねをしてきた十二年間。もちろん、姉妹だから当たり前。だけど私だけが、姉たちの知らない「引っ越し」と「転校」を経験する。もう、モデルはいない。これからは、身一つで考えて、身一つで行動するしかないと、言いたいのではないだろうか。お前は、これから一人で迷って、一人で友達を作って、この土地で生きていくしかない。その第一歩が、今日だと。
一時間かけて、やっと一冊の文庫本を選んだ。犬神家でも、三毛猫ホームズでもない、ごく身近な中学生を描いた小説に決めた。
「これにする」
そう言って渡すと、父は頷いて、そのままレジへ向かった。良いも悪いも言わなかった。
「はい、ありがとうございます」
渡された紙の袋は、家まで開けなかった。
その年の夏休み、憧れの中学校に一学期だけ在籍した後、我が家は引っ越した。吹奏楽部には体験入部に行き、ホルンを一度抱かせてもらって、それで終わった。
今年の春、私は教員を早期退職し、実家仕舞いに取りかかった。父は死に、母は施設のお世話になっている。無人の実家を片づけることにかなり迷ったが、今しかないと決めた。
数千冊の本の山。高校の国語の教師をしていた父の蔵書は重く、古く、いくらでも出てくる。重ねて束ねて、紐でまとめて行く作業を何十回も繰り返して、手が止まった。
「えっ」
あの、初めての文庫本。黄色く色褪せた表紙。嫁ぐ時に捨てたと思っていたけど、ここにあったのか。捨てかけて、戻して、また重ねて、そして、自分のバッグに仕舞った。
アーケードは、既に取っ払われて久しい。
あの日輝いていた本屋は、学校の教科書を扱うのみとなり、立ち読みもできない。
すっとぼけたような青空の下、この町で、私はこれからも生きていく。