佳作
『私と姉とアン・シャーリー』
隂田晴代
私は昭和二十八年生まれです。敗戦後の日本にようやく確かな陽の光が見えてきた頃です。父は地方公務員でとても厳格な人でした。食べるには不自由のないそこそこの暮らしでしたが、我が家にはおもちゃや本の類いは一切ありませんでした。父にとってそれらは贅沢品であり不要のものだったのです。ですから、読書は父からすれば怠け者のすることになります。勉強をしていると褒められましたが、借りた本を読んでいると叱られました。今から思えば、食うこと、困窮した生活から抜け出すことがすべてであった父には「文化」というものは存在しえなかったのでしょう。
私には十歳年上の姉がいました。勉強家で成績優秀、父自慢の娘でした。ある夜、まだ幼かった私が目を覚ますと姉の部屋から光が漏れていました。なんとなく気になって、そっと隙間からのぞくと姉が熱心に本を読んでいました。肌色の小さな本です。何かしらいつもとは違う姉の姿がそこにあり、心に残ったのでした。そして、姉の留守にその部屋に入りあの本を見つけました。それは本棚の隅にそっと置いてありました。漢字も多く題名も読めなかったのですが、開くとしおりがでてきました。押し花をあしらったきれいなしおりでした。私は姉の秘密を垣間見たような気がして急いで元の場所に戻したのを覚えています。
やがて、学年が上がって、その本が岩波文庫の『赤毛のアン』だと知りました。細かな字でとても読めそうになかったので、図書館で同じ題名のジュニア版を借りて父に隠れて読みました。隠れて読むスリルもあってか私は夢中になりました。姉が「アン」のとりこになった理由がわかったような気がしました。引っ込み思案で泣き虫の私にとっても想像の翼を広げる元気で自由なアンはとても魅力的だったのです。高学年になると度々姉の部屋に入ってこっそりアンの世界に浸るようになりました。それこそ想像の翼を広げて。本を読んでいると私はまるでアンのように明るく、生き生きとなれました。そこは姉と私だけが知っている別世界で、無彩色の暮らしの中でキラキラ光っていました。
姉は女には学問は邪魔になるという父の一言で大学進学を断念せざるを得ませんでした。就職先も決まり、家を出るという前の日、姉は私の手にあの『赤毛のアン』を渡しました。
「あんたはがんばんないよ」
と言って。私はがんばれって何がんばんのようと思い、姉がかわいそうでたまりませんでした。
社会は高度成長期に入り、生活は目に見えて向上していきました。年をとったということもあったのでしょう。さすがの父も私が本を買って読んでいても怒鳴ることはなくなりました。姉のような模範生ではありませんでしたが、勉強もできる方でどちらかと言えば大人に扱いにくい生意気な娘になっていました。「あの曲がり角を曲がればまだ見ぬ世界が広がっているはず」というアンの一節を体現しているかの如く不遜で前向きでした。父に対する反動だったのでしょうか。本は気の向くままに様々の分野のものを次から次へと読みました。
ある時、どういういきさつだったのかは覚えていないのですが、姉に会いに列車に乗って出かけたことがありました。駅に着くと改札口で姉が待っていました。その横には感じのいい若い男の人が立っていました。私はどぎまぎしながら挨拶をし、楽しそうに話す姉の姿に驚きました。付き合っている人? 恋人ってこと? 姉のギルバート? 後に姉の結婚式に出席した時新郎はあのギルバートとは違う別の人でした。私は姉が遠い人になってしまったようで寂しく感じたものです。
私は大学に進学しました。
「読書」とは何でしょうか。私は『赤毛のアン』という本を通して、想像することのすばらしさを学び、自分を取り巻く殻を破って成長できることを知りました。本を読み、自分の言葉で考えること、感じることによって物事をより深く、より豊かにとらえることができます。
私もいつの間にか老いを感じる年齢となりました。若い頃に読んだ本をもう一度読み返すと前とは違った思いが湧いてきます。アンがとても愛おしいのです。ちょっと離れたところで応援している感じです。ワクワク、冷や冷やしながら。しかしそれは楽しい時間です。
八十近くなった姉は何というか、「夢見るばあさん」となりました。訪ねると食卓の上に二、三冊の本が載っています。読書は生活の一部となり、生きる支えとなっているのでしょう。私も姉のようになりたいと思うのです。