佳作
『友は蝶のように』
小柳美幸
「もし棺に一冊だけ本を入れてもらうなら、どの本にする?」
静まりかえった図書館で、どちらからともなく声をひそめて私たちは顔を寄せ合った。るいの制服からは、香水の香りがふわりと漂った。
高校時代、授業が終わると息せき切って学校図書館へと走った。そこは五階建てで、たくさんの蔵書があり、生徒がリクエストすれば、どんな本でも購入して貸し出してくれるという私たちからすれば夢のような制度もあった。
あれは、そろそろ高校生活にも慣れ始めた五月のある放課後。いつものように図書館へ行くと、ひょろりと背の高い後ろ姿があった。クラスメイトの、るいだった。
私が声をかけると、るいは人懐こい笑顔を向けた。クラスの中でもお洒落でお転婆なるいは、てっきり学校が終わったら友達と街へ繰り出すのだろうと勝手なイメージを抱いていた。
「図書館、よく来るん?」
と意外そうな表情を隠しきれずに私が尋ねると、
「うん、私、本が大好きやねん」
と教室では見せない照れ笑いを浮かべた。
それから、私たちはよく学校図書館で会うようになった。るいは、びっくりするくらいたくさん本を読んでいた。手を出すのは勇気が要るくらい、分厚くて字がびっしり並んだ本も、シリーズで出ている小説も、なんなく読破してみせた。私たちはよく面白かった本を勧めあった。私が勧めた本の中に、山田詠美の『蝶々の纏足』があった。隣に引っ越してきた美しい少女えり子のまばゆい光の影で、平凡すぎる自分に悩む主人公、瞳美が、思春期とともに性に目覚め、自分の魅力に気づいていくストーリー。自分を苦しめるえり子と決別する瞳美だったが、数年後、思いもよらぬえり子の想いに気づく。
るいは次の日、学校へやって来て興奮した様子で「ありがとう」と言った。
「あの本、めっちゃ好きやったわ! こんなに感動したのは初めて」
それから、るいは、どんどん山田詠美に傾倒していった。図書館にあるものはもちろん、リクエストも出して、次々と新刊も読んでいった。そのうちに、るい自身にも変化が表れた。制服のスカート丈は徐々に短くなり、校則で禁止されているバイトも始めた。ずいぶん年上の彼氏ができたという噂も立った。髪を茶色く染めた不良っぽい女の子たちと遊ぶようになったるいと、教室ではあまり話すことはなくなっていった。それでもるいは、いつも私より先に図書館へ来て本を読んでいて、私たちは今までと全く同じように本の話をして過ごした。
ある作家が棺に一冊、本を入れるなら…というエッセイを書いていて、私たちならどうか、という話になった。
「せーの…『蝶々の纏足』」
声が合わさって、私たちは顔を見合わせて笑った。るいの、うっすらとお化粧をした華やかな顔が輝いていた。山田詠美という憧れの作家との出会いを作ってくれた大切な一冊だと、るいは言った。かつての中国の風習、纏足のように、えり子の美に束縛され、自由を奪われている主人公が、愛と性によって羽ばたいていく物語は、私にとって衝撃と憧れだった。性格もタイプも異なるるいと、同じ一冊の本をあの世にまで持って行きたい本として選んだ、そのことが嬉しかった。
あれから二十年以上の年月が過ぎた。高校を卒業してから、るいとは、もう会うことはなくなった。今でも夕暮れに染まる道を歩いていると、借りた本でずっしりと重い通学カバンを提げながら、るいと尽きることもない読書話をしながら歩いた通学路を、ふと思い出す。今、どこで何をしているのだろう。風の噂で、大学には進学しないでバーテンダーになったと聞いた。そして、恋人を追ってシンガポールへ渡ったのだとも。周りに流されないるいらしい、と思う。そして、山田詠美の小説のように、燃えるような恋をして蝶のように羽ばたいていったのだと。いつかまた彼女に会ったなら、聞いてみたい。いま、るいが棺に入れてほしい一冊は、なに? 今でも本を読んでいる? そして、いちばん聞きたい質問は、
「るいは、いま、幸せ?」