佳作
『背中のぬくもり』
田上裕子
「扉を開けるのが怖い」と息子が頻繁に口にするようになったのは、中学も二年目の秋頃のことでした。毎日不安そうな顔で呪文を唱えるように繰り返されるその言葉の意味の深刻さを私が理解したのは、それから半年も後のことでした。まだ三月の雪が路肩に残る初春、中三に進級したばかりのある朝、息子は突然に姿を消してしまったのです。
登校時間になっても階下に姿を現さないことを不審に思い部屋を見に行くと、そこに息子の姿はありませんでした。残されたのは、学校の鞄と制服、それと充電の切れた携帯電話。瞬間的に吐き気が込み上げ、手足が氷のように冷たくなったことを今でも鮮明に覚えています。
呼吸器の持病がある息子は、友達と入った運動部を途中退部しており、その頃から学校は居心地の悪い場所となりました。教室でも無視や仲間外れが続き、私物がなくなることもあったようです。先生に相談をしても、やんわりとひとり親であることと本人の努力不足を指摘され助けてはもらえませんでした。
「僕なら大丈夫だよ」と、いつも笑顔で返す優しい息子に私は甘えていたのだと思います。仕事漬けの毎日を過ごしていた自分を深く恥じました。
「扉が怖いんだ。部室も教室も職員室も、扉を開けると途端に逃げ場がなくなるから」
警察での事情聴取の最中も、前夜までの息子の言葉が蘇り後悔しました。パトロール中の全車両に無線で情報共有をするので、特に身体的特徴は詳細に教えて下さい、何故なら
「口を聞けない状態、又は生きて発見できなかった場合に重要だからです」
酷な言い方になるけど家出人の捜索とはそういうものだからと告げられてはじめて、私は自分が小刻みに震えていることに気づきました。警察署の裏手にある小学校から始業のチャイムが響きます。やけに遠く虚ろな音に聞こえました。
所持品と同行者の有無や心当たりについて聞かれた時、部屋にあったはずの本がなくなっていたのを思い出しました。息子が最近熱心に読んでいた本です。本から顔を上げて息子は私にこんな質問を投げかけました。いなくなる前夜のことです。
「先生が言うんだ。普通に頑張ればいいだけなのに何故できないのって。普通って何だろうね、お母さん。どこにあるのかしら」
その時の息子の横顔と、上手く答えてあげられなかった自分の無力を思い出し、私は謝る言葉が苦い唾液となって口内に広がる不快感に涙しました。私が想像していた以上に苦しい毎日を息子は我慢していたのだ、何が起きても親として責任を取ろう。無事に帰る保障はどこにもなかったけれど、私には奇妙な確信があったのです。読み終えたら図書室へ返しに行くと言っていた本、息子はそれを持って行った。約束は必ず守る子だ、あの本が息子を家路へと導く灯火となるのではないか。私は一冊の本にありったけの願いを込め祈りました。どうか、あの子を連れて帰ってきておくれ。
願いが通じたのでしょうか、幸いにして息子は無事に見つかりました。警察や方々にお礼とお詫びに歩き、ようやく落ち着いて会話ができる頃にはすでに夜中になっていました。
自転車で行けるところまで遠くへ逃げようと思ったこと、夜明け前に家を飛び出し広々とした田んぼで見た日の出が美しかったこと、自由を感じたのも束の間、腹が空き少ない所持金もすぐに尽きたこと、息子はたくさんの思いを話してくれました。寒くて不安で
「でもね、背中だけは特別温かだったんだ。きっとリュックの中に本があったからだ。どんな時も本だけは俺といてくれるから」
それから、ごめんなさい。と言った息子の一人称が僕から俺に変わったことに、ああこの子は何かを自分なりに通過したのだなと感じました。
不登校気味だった学校にもまた通うようになりました。ただし教室にではなく図書室登校です。高校は通信制の学校を選びました。あいにくのコロナ禍でも手厚いサポートで順調に学び、たくさんの友達にも恵まれました。伸びのびとした高校生活を過ごし、希望する大学への進学も決まりました。春からは法律家を目指します。
すべての本は無限に深い懐を持つ世界への扉であること、そこへ導かれ開けることができたのは、図書室の扉がいつでも開いていたから。自分を無条件に招き入れ、明るい方へと居場所を作ってくれたから、息子はそう言います。
たとえまた立ち止まるようなことがあったとしても、あの時背中に感じた本のぬくもりが生涯息子を守り支え、そっと前へと押してくれることを私は信じています。