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「ページのはざまのつむじ風」 _読書エッセイ

佳作

『ページのはざまのつむじ風』

伊藤えみ・イギリス・41歳

 普段は冷涼なこの地域が珍しく暑かった二年前の夏、甥が私の両親、つまり彼の祖父母と共に我が家に遊びに来た。最初の一週間は両親がいてくれるのでいいけれど、後半は私たち夫婦と甥だけになるので、引き受けたものの大丈夫かな、と最初多少の不安はあった。
 だって十歳の男の子はとにかく元気なのだった。テレビもゲーム機もない家で大人が静かに話し込んでいると、小さな体がうずうずしてくるのは端から見ていてもわかる。直にソファはトランポリンになり、おやつで汚れた口元がクッションに押し付けられる。
「こら!」と低い声で叱って、クッションを全部取り上げてしまうと、こわーい、と言って彼は首をすくめた。十歳は大人とはちょっと違った世界に住んでいるのだった。
「収入いくら?」
「ちんちん見たことある?」
 とか、キビシイ質問に動じないふりをして私は答える。
「あるよ。兄弟いるもん。小さい頃はあなたのお父さんと一緒にお風呂入ったもん」
「あ、そっか」
 こちらの冷や汗をよそに、返ってくるリアクションは意外とあっさりしているのだった。
 しばらくして両親が帰ってしまうと、どう彼の退屈を紛らわすか、というのがいよいよ切迫した問題になった。公園に行きたいと言うけれど、真昼はうだるような暑さだった。
私は仕方なく二階から本を出してきた。
『風にのってきたメアリー・ポピンズ』
「これ一緒に読もうか」
 それは少女時代の私が夢中になって読んだ、ちょっと風変わりな物語だった。こうもり傘を持って、空から舞い降りてきたかのようなメアリー・ポピンズ。登場の仕方からして謎めいて魅惑的なのだけど、羽根つきの帽子だとか、木苺ジャムのケーキだとか、物語を彩る物たちもまた、当時の私には彼女の操る不思議な力と同じくらいエキゾチックに映った。
 私は本を開くと声にだして読み始めた。
 子守りの求人広告に応じ、東風と共にメアリー・ポピンズがやって来る。ずっと昔に読んだきりで忘れていたのだけど、原作の彼女は冷淡で気難しくて、およそ子守りには向かないタイプだった。それなのにバンクス夫人はおどおどと彼女の機嫌をとってしまうし、子供のマイケルは「ぼくらでいいですか?」なんて聞く始末だった。甥は声をたてて笑った。私もちょっと笑って彼の方を見た。
 さっきから静かに聞いていた彼はタオルケットを巻きつけて横になり、なんだかコンパクトなミイラみたいになっていた。彼は首をねじると「それで?」と続きをせがんだ。
 メアリー・ポピンズのフツーでなさはそこでは終わらず、からっぽのバッグからエプロンや石鹸、さらには椅子やベッドを取り出したかと思うと、今度は一本の薬瓶から味の異なるおいしい液体を次々とついで、就寝前の子供たちに飲ませるのだった。その間、彼女の振る舞いはつっけんどんで怖いくらいなのに、私も甥もその突き放したような性格にどこか魅せられてしまったようだった。
 音読に不慣れなためか、一章読み終えると私の喉はいがらっぽくなった。お茶をいれに立つと、甥が「ぼくも飲みたい」と言うので、ごく薄くいれた紅茶をカップについで砂糖を加える。そうしてふたりで静かにお茶を飲んでいると、なんだかまだ、ページのはざま、桜町通りのあの変な家にいるような気がしてきて、その余韻がゆらゆらと心地良かった。
 翌日は夫が遊びで庭にテントを張ってくれた。夜になり、甥と私ふたりは寝袋、ランプ、干し杏子、続きを読むためメアリー・ポピンズの本も抱えて、涼しくなった庭に寝巻にサンダルばきで出る。通りを照らす街灯の光はぼんやりと家の脇まで伸びていたけど、ランプがなければ足元はおぼつかなかった。私たちはさなぎみたいな小さなテントに潜り込むと、ランプが手元を照らす中、ページをめくった。
 第二章はメアリーとマッチ売りの男のデートの話だった。それは普通のデートではなくて、彼がチョークで描いた景色の中に入り込むという、やっぱり幻想的な展開だった。
「ねえねえ杏子ちょうだい」と甥が言うので、私たちは時々読書を中断して杏子をつまんだ。音読を再開してしばらくするとまた声がかすれてくる。そのうち彼が「おしっこしたい」と言い出したので、ランプを手にふたりでそろそろと家に戻った。用をたして再びテントに潜り込むと、なんだかふたりとも疲れてしまったので、伏せた本にしおりを挟む。
 明日はどんな一日になるだろう、と私は思った。メアリー・ポピンズのようにちょっと離れたところ、日常の向こう側から自分たちを観察してみる。そうしてあれこれ思い巡らしていると段々夢とうつつの境が曖昧になってくる。私は腕を伸ばしてランプの明かりを消すと、寝息の聞こえる方角に「おやすみ」と小さく言った。

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