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「旅をする木が授けてくれたもう一つの時間」 _読書エッセイ

佳作

『旅をする木が授けてくれたもう一つの時間』

佐藤勇児・岐阜県・36歳

 私が星野道夫さんの『旅をする木』に出会ったのは、大半の視力を失った25歳の時でした。今では『旅をする木』に授けてもらったもう一つの時間と共に生きています。それまで障害とは無縁で、視力も足にもなんの不自由もない大学生でした。それが、21歳の時の事故で大きな障害を負ってしまったのです。
 大学生だった私は、写真が趣味で昼夜問わずカメラを持って歩きまわっていました。時は大学三回生、友人もゼミの皆も就職活動の為に慣れないスーツに袖を通していました。私もその中の一人でした。ですが、高校生の時に写真で優秀賞を二度頂いたという自意識がネクタイをなかなかうまく締めさせなかったのです。そんな中、起こった事故でした。私は右目を失い、左目は重度の弱視、両足とも軽度ながらも障害が残りました。退院が出来てまず気になったのは、こんな体で就職が出来るのかということです。事故にあった頃は、就職は売り手市場で気持ちにわずかながらではありましたが余裕がありました。ですが、退院した時には、リーマンショックで就職難の時代になっていました。私は就職出来るのか、その前に私は何が出来るのか、心配事はあとからあとから湧いてきます。一応、障碍者向けの就職説明会に行きましたが、求められていたのは軽度の障碍者ばかり。重度の障害を負った私は相手にしてもらえませんでした。やっぱりかと帰りの電車の中で幾度も泣きました。25歳の夏でした。寂しく悔しい夏でした。
 そんな時、視覚障碍者を支援する団体の方から音声図書の存在を教えてもらいます。ボランティアの方が本を朗読し録音して下さっていて、それを音声図書として借りたり、ネットからダウンロード出来るのです。就職活動に絶望していたこともあり何か気晴らしを求めていた私は音声図書をダウンロードすることにしました。調べてみると小説や映画を音声で解説したもの、図鑑と幅広いジャンルがあります。私は以前から写真家として尊敬していた星野道夫さんがエッセイを出していることを知ってはいましたが、読んだことがなかったので音声図書で聴こうと思い検索しました。すると何冊もエッセイがヒットしました。その中でも代表作と呼ばれている『旅をする木』をダウンロードしました。
 音声で読み上げられる文章は温かみがあり、かといって感情的でもなく素晴らしいものでした。そして、その音声が読み上げる『旅をする木』の情景がなにより素晴らしかったのです。今まさに自分の目で見ているかの様で引き込まれてしまいました。実際には見たこともないクジラが、訪れたこともないアラスカの大地が見えない私の前に想像の情景を広げていったのです。
(その時である。突然一頭のクジラが目の前の海面から飛び上がったのだ。巨体は空へ飛び立つように宙へ舞い上がり、一瞬止まったかと思うと、そのままゆっくりと落下しながら海を爆発させていった。)
 これは仕事をやりくりし休みを作った女性をアラスカの海へ連れて行った時の星野道夫さんの文章です。もし私が目が見えていたらこの文章にそこまで感動しなかったかもしれません。見えないからこそ見えた、見えないからこそ鮮明に感じた情景なのだと思います。文章は女性の語りで続きます。
(何が良かったって? それはね私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと。)
 私は『旅をする木』を通してもう一つの時間が流れていることを知りました。実感したといったほうがいいのかもしれません。私が寂しがったり、悔しがったりしていた瞬間にも、もしかするとアラスカの海ではクジラが飛び上がっていたのかもしれない、そう実感することが出来ます。
 だからといって障害も就職できなかった現実も何かが変わるわけではありません。しかし、実感出来るということは、どんなことがあっても過度に悲観する必要はないと思えることなのです。それは、いつも心に余裕が持てるということなのです。
 『旅をする木』を読み終えた後、私は盲学校へ進みました。ネクタイを締める時間だけが進むべき時間ではないと実感したからです。そしてマッサージ師の資格を取り、今は作業着を着て様々な人の肩や腰に触れています。人の体に触れることでもう一つの時間を感じています。それは、もしかするとアラスカでクジラの飛び上がっている姿を感じていることと同じなのかもしれません。私は今、この手でこの指でクジラの飛び上がっているもう一つの時間と同じ時間を生きています。

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