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「青い辞典」 _読書エッセイ

優秀賞

『青い辞典』

杉村圭志・奈良県・55歳

 九月の残暑厳しい日、パクさんは日本での生活を終え韓国へ帰っていった。コロナ禍の中社内では送別会もままならず、静かなお見送りになってしまった。
 彼は日本語が達者で、私よりずっとまろやかに操っていた。そんな彼を会社の面々も心底尊敬していた。
帰国前日、串カツで締めようと二人で出かけ、大阪の思い出と将来の夢について盛り上がった。すると、彼は私にこうおねだりをしてきた。
「僕に本を紹介してほしいねん。韓国へ帰っても日本語を勉強したいねん。小説読みたいねん」
 酔いが回るとインチキ臭い大阪弁を話し出す癖があって、今日はいつもより早い気がした。
「何回も読み返せる一生の友達みたいな一冊がほしいねん。せやろ?」
何か餞別を送りたいと考えていた矢先だったので、本を選んであげることにした。まだ書店が開いている時間だったので、私たちは急いでビールを飲み干し書店を目指した。
自慢できるほど読書家でもない私は困り果てた。唯一の手持ち札と言っていい「中勘助・『銀の匙』」を選んだ。さすがにちょっと難しいかなと首をかしげるや、彼は間、髪を容れず
「これ読みました。とてもよかったです」
敵は中々のやり手で戸惑ってしまった。私はたちまち何を薦めたらいいのか途方に暮れ、店内を二周三周する破目になった。
 私は辞典に目が止まった。丁度映画の『舟を編む』を観た後だったので、ヨシっと小さくガッツポーズをしてしまった
「国語辞典、持っている?」
「電子辞書しかあらへんねん。あっ、辞典ほしいねん。辞典選んで下さいねん。そやな」
 私は色とりどりタイプの違う辞典の中から青色の「新明解国語辞典」を選んだ。
「この辞典は個性的だけど、パク君だったら使いこなせるはず。日本語を楽しんでくださいね」
向田邦子の文庫本を重ねて彼に渡した。彼は初めてビー玉を手にして、光越しに覗き込む子供の目と同じ目で、その青い辞典をパラパラめくった。頭を何度も下げ礼を言いながら、小さなカバンにその二冊を押し込んだ。
 彼は翌日、二日酔いのまま何とか空港へ出向き、滑り込むように飛行機に乗ったと聞いた。辞典でよかったのかなと思いつつ、急に私も欲しくなり同じ青い辞典を買いに行ってしまった。偉そうに「日本語を楽しんでください」なんて上から目線な言い方を反省し、とりあえず私の机上は青の登場で少しは華やいだ。
 彼からのメールがあったのは二週間の隔離生活を終え、釜山郊外の実家に帰ってからだった。
 『お久しぶりです。向田邦子はとても面白く読めました。内容は辞典があったので理解できました。でも、書かれていない部分、余白はまだ分かりません。これから何度も読みたいと思います。감사합니다カンサハムニダおおきに。』
 この充実感は一体何だろう。隔離された空間で静かに辞典をめくる紙の音が聞こえた。大きな身体の太い指で辞典の中の小さな文字を追いかけていたのかと思うと、笑えてきた。これからも彼は困った時にはあの青い辞典に手を伸ばすだろう。それだけで私を頼ってくれているようで、意味なく深くうなずいた。
 暫くして書店に行くと、青い辞典の新刊が発売されるポスターを見かけた。辞典も生ものだし、新しいのが必要だな。

 

パクさん、それから元気にしていますか? 旧友たちと楽しく飲んでいることでしょう。管を巻いて、千鳥足で釜山の路地裏ではしご酒をしているのかな? 青い辞典は元気にしていますか? 最新版が間もなく発売されるようです。釜山・大阪どこで再会できるかは分かりませんが、その時再会を祝してお渡しします。それまでに今の辞典は、赤い線で一杯にしておいてください。早く自由に行き来できる日を楽しみにしています。返信不要。

私は書店のレジで辞典の予約を済ませた。「青でお願いします」
そして、韓国語講座入門編を探すために振り向いた。

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