佳作
『興味の種の萌芽』
宇都宮梓・福岡県・22歳
とある夏休み、大学生の私は母の頼みで母の知人の子どもの面倒を見ることになった。その子はまだ小学校低学年の女の子だった。指定された図書館で、数時間後にまた迎えにくると約束をしてその子の母親と別れた。
何を話そうかと考えているうちに少女がぽつりと「ほん、よみたい」と呟いた。
「へえ、何が読みたいの?」
少女は困ったような表情を浮かべた。もしかして人見知りをしているのかもしれない。そう考えた私は手を差し伸べた。
「じゃあ、一緒に見に行こうか」
その言葉に少女は頷き素直に付いてきた。
児童書のコーナーで私は本を片っ端から引っ張り出した。しかし少女は首を横に振るばかりで、数十分後には私はすっかり辟易していた。もうお手上げだと思った所でふと少女が思い出したように「ふとい、……なおる……」と呟いた。
何かの暗号かと思って私は考え込んだ。そして不意に「太い」「治る」という漢字が脳裏に浮かび、思わず「あ」と声をもらした。
「太宰治?」
少女が頷く。なるほど、「太」「治」ならばもう習っていてもおかしくない漢字だ。合点はいったものの、次に感じたのは困惑だった。
「太宰治、読むの?」
その問いかけに少女は否定とも肯定とも取れぬ曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。もしこの年で太宰治を読むのなら早熟というかかなり珍しい。読書好きな私でも初めて読んだのは中学か高校に上がってからだった。
とにかく私は太宰治の本をかき集めて机上に並べた。少女はそれらを神経衰弱でもするかのようにじっくりと順番に眺めた後に「これ」と『人間失格』を指さした。
「本当にこれ?」
そう確認せずにはいられなかった。というのも私は『人間失格』を高校の感想文の題材として選び、読了後共感や苦しさで鬱々とした感情が尾を引いた記憶がある。
私の不安をよそに少女ははっきり頷いた。
「どうしてこれを読みたいの?」
そう尋ねると少女は独り言をいうくらいの声で「お父さんのへやにあった」と言った。
「お父さんの……?」
詳しく聞けば、少女の父親は仕事が忙しく休日でもあまり遊べないらしい。そんなとき偶然父親の部屋に置かれていた太宰治の『人間失格』を見つけて興味を持ったそうだ。大好きな父の好きなものを知って少しでも父のことを理解したいらしかった。言葉を選びながら答える様子を見て、私は心を決めた。
「じゃあ、一緒に読んでみようか」
その言葉に少女は笑顔を見せた。
私たちは図書館の一角で横並びに座り本を開いた。ゆっくりと目を通し、難しい漢字に出会う度私がその意味を説明した。上手く説明できないものに関してはその都度辞書を開いて噛み砕いて伝えようと努めた。まだ小学校低学年の少女がどこまで理解できているかは怪しかったが、じっと耳を傾ける姿は真剣そのもので、思わず笑みが浮かんだ。
そして気が付けば日は沈みかかっていた。結局、費やした時間に対して読み進めたのはほんの数ページだった。そろそろ休憩を挟もうかと思った所で聞こえた靴音に顔を上げると、傍らに少女の母親が立っていた。
「ごめんね、助かりました」
会釈を返していると、少女が本を読んでもらったと母親に自慢をしていた。
「へえ! よかったね。何読んだの?」
「にんげんしっかく」
少女が覚えたての言葉で答えるのを聞いて母親は「人間失格?」と目を丸くした。
やがて母親は本を返却しに一度その場を離れた。私は嬉しそうにしている少女に「面白かった?」と尋ねた。すると少女は唸ったあとに「むずかしい」とだけ言って笑った。
「うん、難しいよね。でも、お父さんにそれを伝えてみたらお父さんも喜ぶんじゃないかな」
「本当?」
「うん。今日帰ったら伝えてみたら?」
そう提案すれば少女は目を輝かせ頷いた。それは今日一番の笑顔だった。きっと彼女の想いは伝わるだろう。
少ししたら母親が帰って来たので、私は二人を見送った。
「今日はありがとう。またね」
母親がそう言うと少女も手を振ってくれたので振り返す。手を引かれて遠ざかる小さな背中を眺めながら、私はしみじみとした思いでいた。誰かへの想いが興味への種となり、一冊の本を通して芽を出し、読書体験の共有という形で実を結んでいくこともあるのだ。そして私の言葉に耳を傾けるあの真剣な表情を思い出しながら、その体験の一端を担えた自分はとんでもなく幸福だと思った。