佳作
『『きょうはなんのひ?』の日』
城田由希子・奈良県・56歳
保育園でたくさんの絵本を読んでもらったおかげで、息子は絵本が大好きになった。お気に入りは、瀬田貞二さんの『きょうはなんのひ?』。
保育士さんによると、この絵本は園児から読んで読んでとせがまれるくらいの大人気。何度読んでも、みんなワクワクした顔で最後まで聞いているのだそうだ。結末は充分わかっているはずなのに……。
息子は自由時間にときどきこの本をじっと眺めていたらしい。文字は読めないが、一人で謎解きの仕組みを観察していたのだろう。
簡単にあらすじを紹介すると、主人公のまみこがひらがなとカタカナで短い手紙を何枚も書いて、家のあちこちに隠す。手紙には次の場所のヒントがある。お母さんがヒントを手がかりに手紙を一枚ずつ見つけていく。
「お母さん、ぼくもまみこちゃんのように、手紙を書いて隠してみたい」
私に真剣な眼差しで訴える顔は、意欲にあふれていた。普段あまり見ない表情がたくましく思えて、うれしさがこみ上げてきた。
ただ、この保育園の教育方針は、ひらがなは小学校に入ってからきちんと習うべきとしていた。私もフルタイムで働いていて、文字を教える余裕などなかった。だから、息子はひらがなの読み書きはまったくできなかった。
「小学校に入ったら、ひらがなを教えてもらえるよ。それを全部習ったら、手紙を書いてね。楽しみに待っているよ」
小学校に入って、早くひらがなを書けるようになりたい。それが夢だった。
ようやく小学校でひらがなを習い始めた。
一画で書ける「し、つ、く、へ」から始まった。一画でも比較的難しい「の、そ、て、ひ」などはその次だ。そして、二画、三画、四画と画数が増えていった。
息子は、一文字ずつ丁寧に書いて練習した。気に入らない字は、消しゴムで消してやり直した。すぐに飽きる性格が、本気モードに変わっていて、私は驚いた。
宿題には、先生からの大きな花丸。そして、必ず一言が添えられてあった。
「じょうずにかけました」
先生は、やる気スイッチをしっかり見つけてくれていた。
全部のひらがなを習い終わったのは、五月頃だっただろうか。ある日、息子が家事をしている私に声をかけた。
「お母さん、小さくて一枚ずつちぎれる紙をたくさんちょうだい」
私が電話の横のメモ帳を渡した。
「これでいいかな?」
「うん、ばっちり。ありがとう」
そう言うとあわてて自分の部屋に入った。しばらく静かにしていたが、部屋から出てきて、あちこちうろうろし始めた。動きが気になったので聞いてみた。
「何してるの?」
「秘密だから、後ろ向いてて」
なんだかニコニコと楽しそうな様子だったので、私は素直に後ろを向いた。少しすると、息子は他の部屋に行きかけたが、振り返って私に向かって言った。
「あのね、ついてきちゃだめだよ」
「うん、行かないよ」
なにやら怪しげだなと思いながら、洗濯物を取り入れようと庭に出た。
「だめだめ、そのままここで待っててよ」
息子は片手で私を押しとどめるようにした。まったく動きにくくて仕方がない。
「どこにいたらいいの?」
「いいよって言うまで玄関にいて」
もしかしてあの絵本? 急にそのことを思い出して、私は玄関でワクワクしてきた。
「もういいよ!」
鬼ごっこのかけ声みたいに言われて、洗濯物を取り入れようと庭に向かった。
「違う。こっち」
息子が案内したのは台所のテーブル。そこにさっき渡したメモが半分に折って置いてあった。「ぼくのへやのつくえのうえ」。
部屋のメモには「げんかんのかさたて」。
続いて「あさがおのうえきばちのした」。
やっぱりあの絵本のまねだな。面白いことに、息子は私の後をずっとついてくる。私はわざと考えるふりをして立ち止まった。すると、手をつないで次のメモまでそっと誘導してくれた。その姿がかわいい。
絵本では、手紙の初めの文字をつなげると「けっこんきねんびおめでとう」となる。両親の結婚記念日を祝うメッセージなのだ。でも、息子の作ったメモにはそんな仕掛けはなさそうだ。そこまで考えるのにはまだ幼い。
植木鉢の下にあった最後のメモ。
「これでおしまい。おかあさんだいすき!」。 なんてストレートな! 照れながら私を見る息子を、ギュッと抱きしめた。
「ありがとう。お母さんも大好き!」