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一般社団法人 家の光協会は、
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佳作

『背伸び』

小松崎有美・埼玉・35歳

 悔しくてちょっぴり切ない私の思い出。それは小学校一年生のときのこと。母子家庭で育った私は学校が終わると毎日図書館で母を待っていた。おやつもなければ、話す友達もいない。あったのは無数の本と無限の孤独だった。

「ママ、こっち! こっち!」

「ほら! 走っちゃダメよ!」

 静まり返った図書館に時折響く親子の会話。喉から手が出るほど羨ましかった。けれどそれ以外は音ひとつない世界。時計があってもろくに読めず、腹の鳴る音で閉館だと気づいた。それでも母はまだ現れない。

「いつもひとりで大丈夫かい」

 ある時、図書館の入口で母を待っていると司書の先生が声をかけてくれた。誰もいない空間にこの人の声だけは温かかった。先生は私に飴を差し出し、母が来るまで傍(そば)にいてくれた。飴を舐めるとさっきまでの空腹は消えた。けれど先生のやさしさは消えることなく、日が暮れても小さな私の心を灯していた。本当の空腹は心の方だったように思う。

 幼少期、母はとにかく忙しかった。何を言っても「時間がない」が口癖だった。寝る前に『エルマーのぼうけん』を読んでと頼んでも「長いからもっと短いのにして」と言われることもあった。最も苦い記憶と言えば、図書館に迎えに来た母に「あの本が読みたい」と言った時だった。視線の先には『モモ』が。一番上の棚の、手の届かない場所にあった。

「ダメよ。あれはまだ」

その言葉は私に暗い影を落とした。上級生がひょいと取ってゆくあの棚の本たち。それは手を伸ばしても届かない母の心みたいだった。

 いつだったろう。そんな思いに気づいた先生がある時、小さな脚立を出してくれた。私はワクワクしながらのぼった。大人の階段をのぼるような感覚とでも言おうか。未知なる領域に足を踏み入れるような気持ちだった。手を伸ばせば指先が『モモ』まであと少し。最後はぐんと背伸びをしてなんとか取ることができた。しかしページを捲った瞬間、それが本当に「背伸びをした本」だと気づかされた。何せ読めない漢字に、蟻のように小さな文字。とっさに目の前の棚に戻して図書館をあとにした。それ以降、私は目線と同じ高さの本しか読まなくなった。

 やっと『モモ』に手が届いたのは中学一年生の時だった。時間を節約する大人たちに母を重ね、そんな大人を救おうとするモモに熱くなった。時間とは何かを改めて考えさせられた。

「時間がないからご飯が作れない」

「時間があったら本でも読んであげられるのに」

 自分の焦りを「時間」のせいにして、自分の救いを「時間」に求めると、結局大事なものが消えていく。母は本に出てくる大人そのものだった。何だか妙に親近感を覚え、貯めていた小遣いで『モモ』を買った。誰のものでもない、私だけの本。いつでも私に開いている、私だけの世界。本当に嬉しかった。

 そんな私ももう大人。手を伸ばせばどんな本でも届くし、お金を出せば大抵の本は手に入る。しかし初めてあの棚に手を伸ばした時の緊張感や、やっと自分の本を手に入れた喜びはない。『エルマーのぼうけん』を読み、懐かしさはあっても興奮はない。幸い双子を授かり、今は「時間のない」日々を過ごしている。仕事に家事に入学の準備も重なり、てんやわんやである。三十六色のクレヨン一本一本への記名も、双子ともなると七十二本。気の遠くなる作業に睡眠不足の日々。けれど子ども達は容赦ない。「としょかんでエルマーよみたい」と私の手を引っ張る。本への興味も私譲り。図書館に入るなり、「あれ取って」と上の棚を指差す。ちょっぴり苦い思い出と背伸びをした記憶がよみがえる。母と読みたかった本。母に取って欲しかった本。母のことを知った本。様々なエピソードを噛みしめ、母を思い、母となった自分を見つめる。

「がんばって読もう」とは言えなくても「いっしょに」を添えるやさしさだけは持ち続けたい。そんな気持ちで息子を抱き上げた。

 あの時の背伸びみたいに。

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