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わすれられた庭 _読書エッセイ

佳作

『わすれられた庭』

下谷実紗・岡山県・32歳

 探し続けた絵本がある。

 私が幼い頃、母が図書館で借りてきてくれた絵本だ。少女が扉を開けて異世界に行き、不思議な冒険をして戻ってくる……そんなストーリーだったと記憶していた。

 イメージは、曖昧でありながら鮮烈だった。幾度見たか分からない夢の中で、青いワンピースを着た少女が振り返る。独特で美しい絵が印象的な絵本だった。幼い頃から何度も通った図書館の煉瓦の庭と、絵本の挿絵が記憶の中で一体化する。クマのぬいぐるみを抱いた少女が、橙色の煉瓦の上を駆けていく。少女の顔は見えない。空間が逆さになったように、煉瓦は天井まで伸び、その真ん中に青い扉がある。少女は恐る恐る煉瓦の階段を上っていき、扉に手を伸ばす……。

 少女、ぬいぐるみ、異世界、煉瓦。キーワードは幾つもあるのに、肝心の絵本にはなかなか辿り着けなかった。高校生の頃からインターネットで検索を始めたが、どうしても分からない。何年も、暇があれば検索を繰り返したが、情報の海を懸命に探索しても正解は遠かった。社会人になり、絵本のあった図書館に再び通えるようになった私は、地道な方法を考えた。絵本がこの図書館にあったのは間違いない。なら、絵本コーナーを片端から探せば、いつか見つかるかもしれない。だが、すぐに不可能なことに気付いた。図書館の棚に出ている本だけが蔵書な訳ではない。むしろ、私が幼い頃の本なら、ベストセラーでない限り、とっくに書庫で眠っているだろう。忙しそうな司書に、雲を摑むような相談をするのも気が引けた。意気込んで始めた、図書館での絵本探しは徒労に終わった。

 万策尽きた。しかし、諦めきれない。脳裏に焼き付いたイメージは奇妙な鮮やかさで、繰り返し夢に現れる。どれだけ時間がかかってもいい、もう一度あの物語を見つけたい。そう思い、インターネットでの検索を続けることにした。キーワードを少しずつ変えて、何年間も、暇があれば探し続けた。私と同じように、各々の思い出の絵本を探している人がたくさんいて、絵本を探す専門のインターネットサイトがあることも知った。

 探し始めて十年以上経ったある日。ふと思い立ち、キーワードを入れて「画像検索」をしてみた。大量に出てきた意味不明な画像に混じって、印象的な絵が現れた。どきりとした。精密で美しい油絵を思わせる、独特の世界観。確かに記憶の底を引っ搔かれたのだが、表示された絵本のストーリーを追っても、求めていた物語ではなかった。落胆しつつ、同じ作者の著書を探すと、一冊の絵本が現れた。

 その瞬間の歓喜を、言葉にするのは難しい。

 無くしてしまった宝物に、再び巡り会えたような安堵と懐かしさ。思わず、涙が滲んだ。

 表紙に広がるのは、綺麗なブルーの空だ。

 木の枝に、時計が……様々な色の丸い形をした時計が、林檎の如く実っている。道化か木の精のような、ユニークな顔の人物が木の根元に腰掛けている。その下の大きな丸い時計は、まるで地球だ。木や時計の上に、玩具めいた鳥とクマのぬいぐるみ。鮮やかな、それでいて、どこか郷愁を呼び起こす色彩。

 ああ、見つけた。やっと見つけた。

 どんな物語が待っているのか、想像力を無限に搔き立てる、幻想的で美しい絵。

 手元に届いて表紙に触れた時、指先も心も大きく震えた。ページを捲る度、記憶に違わぬファンタジックな物語と、美しい挿絵に溜息が零れた。幼かった私の心を捉えた絵本は、驚くほどの瑞々しさで、再び私を不思議な冒険の旅に誘ってくれたのだ。

 物語の結末、少女は親友となったぬいぐるみと共に母親の元に戻る。大冒険をした娘に、母親は優しく微笑む。「おかえり、今日は早かったのね」……。

 出版は一九八八年。今はない出版社(注)からの発行であり、はるか昔に絶版になっていた。恐らく、再販されることもないだろう。店頭に並べば間違いなく人目を引く絵本なのに、二度と流通しないのは残念で仕方ない。きっと世の中には、このような本が無数にあるのだろう。世間からは忘れ去られ、誰かの心の中だけで生き続ける、幻のような本が。

 絵本のタイトルは『わすれられた庭』。

 そこには、皆が忘れたもの、無くしたものが溢れている。だが、決して無価値なものではない。捨てられて泣いていたクマのぬいぐるみが、少女の親友となったように。

 この絵本に最初に出会ってから、二十五年以上が過ぎ、幼かった私はとっくに大人になった。仕事に追われ、疲れを感じた時、私は眠る前に絵本を開く。摩訶不思議な美しい庭で、永遠に年を取らない人物がにっこり笑って迎えてくれる。「ほら、顔を上げて。大切なものを無くしていないかい? さあ、この庭で一緒に探そう。時間はたっぷりあるさ」と。

 「わすれられた庭」は「わすれられない庭」となって、私の心の中に存在し続ける。

(注)福武書店(現・ベネッセコーポレーション)が発行。

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