佳作
『うつくしいルビ』
柳 和樹・京都府・28歳
「素敵な言葉を知っているね」
と、先生に褒めていただいたのは、小学校三年生の時だった。
国語の時間に、ものの状態を表す言葉をみんなで言ってみよう、と先生が仰り、私たちは思いつくままに手を挙げた。
ふわふわ、ちいさい、ぷにぷに、つめたい、きらきら、かわいい、あかい……。
たくさんの言葉が、黒板を埋めていく。
「うつくしい」
と、私は発表した。
それは大人の言葉だよ、と誰かが言い、きれいとどう違うの、と別の誰かが私に尋ねた。
私には、その言葉がどんなものをさすのかは分からなかった。
けれど、まだ世の中が知らない言葉で溢れていたあの頃、きっと大切な意味を持つその言葉にぴったりな瞬間が、いつか自分にも訪れるのだとわくわくしていたのを覚えている。
「詩を読んでみたら」
そう薦めてくれたのは、母だった。
小学校中学年にもなると、今まで読んでいたひらがなばかりの本は飽きてくるし、かといって字がぎっしり書かれた(当時はそう見えた)小学生向けの文庫本には抵抗があった。
「詩は漢字もあるし、短いからすぐに読めるよ」
もともと大学で文学を専攻していた母は、たくさんの詩集を持っていた。
北原白秋、島崎藤村、中原中也、金子みすゞ、ランボー、シェリー、……。
数ある詩集の中で、私が手に取ったのは、『美しきもの』におさめられたジョン・キーツの作品だった。他の詩集と違い、その本は背表紙がピンク色の仕掛け絵本で、それぞれの詩の情景に合わせて色鮮やかな絵が飛び出した。
「これがいい。でも、まだ習ってない漢字があるから読めないの」
母は、詩集をパラパラとめくり、じゃあルビを振ってあげるわね、と言った。
本の題になっている「美しきもの」のページはピンクのバラの絵が飛び出し、「美しきものは永遠の喜び」という始まりのフレーズは、初めて持つ秘密のような、憧れに似た響きがあって私のお気に入りだった。
詩は、読む回数を重ねるごとに、私の脳裏に彩り豊かな世界を描くようになった。
短い言葉の紡ぐ世界に夢中になった私は、そのうち、学校の休み時間にも詩集を開くようになった。
その本大人向けでしょ。もうそんな難しい字が読めるの、と友人からは驚かれた。
みんなと違って習い事をしておらず、何の特技もなかった私は、本を読んで褒められることが何より嬉しかった。
それから、私は次から次へと母のもとに本を持っていき、ルビを頼んだ。
母は、嫌な顔ひとつしないで、たくさんのルビを振ってくれた。
あれから二十年。
久しぶりに帰省した折、本棚の隅にあの詩集を見つけた。
久しぶりに手に取ると、背表紙こそ色褪せていたものの、ページをめくると懐かしい世界が鮮やかに広がった。
「あの頃、ルビを振るの大変だったでしょ」
と聞くと、母は目を細めて答えた。
「そうね。でも、あなたが喜んでくれるのが嬉しかったから、苦ではなかったよ」
私が学校に行っている間、母は家事の合間を縫ってルビを振ってくれた。
習字を習いたいと言った時に反対した父の代わりに、字の綺麗な母が、自分の字をお手本にしたら良い、と言ってくれた。
だから、母の字は、初めから最後のページまで、すべて几帳面に丁寧に書かれていた。
母のルビが、たくさんの言葉とその先にある世界と私を繫げてくれた。何の取り柄もなかった私に、新しい言葉を知る楽しみや本を読む喜びを教えてくれた。
そして今、暇さえあれば本を開く自分がいる。
うつくしい。
辞書を引くと、そこには「美しい・愛しい」と二つの漢字が並んでいる。
「肉親への愛から小さなものへの愛に、そして小さいものの美への愛に、と意味が移り変わり……」(新村 出編『広辞苑 第七版』、岩波書店、二〇一八年)
ああ、なるほど。うつくしいものの源には、愛があるのか。
行と行の小さな隙間に並ぶ整った文字は、愛情の詰まったうつくしいルビだった。