佳作
『生涯の宝物』
戸澤三二子・愛知県・6歳
小学六年生のときだった。国語の授業が始まる前に先生はこう話された。
「今日から数回に分けて、皆さんに聞いてほしい小説を読むことにしましたよ……」
女先生はにこにこしながら題名を『二十四の瞳』と黒板に書いてから、新聞紙のカバーを掛けた本を掲げて見せてくれた。
「早くー、早くー」
クラスの空気はわくわくしてくる。
「はい。はい」
先生は軽く返事をして、ひと通り教室をぐるりと見渡していた。読み始まるとしーんとして内容がひしと胸に伝わってくる。
「聞きやすい読み方だなあ」
ちょっと生意気だったと思うが、私は感心して聞いていた。そのとき男の子の誰かが突然、大きな声で言い出した。
「先生は本の中のおなご先生みたいだ。自転車に乗って通って来るのもそっくりだよ」
「本当だ!」
男の子たちがはやし立てた。
学校でも評判の美人先生は顔を赤らめて笑っている。和やかな雰囲気の中、読み聞かせは続き、段々と小説の世界に入り込んだ私は両手で涙を拭き拭き聞いていた。その訳は自分と重なるところがあったから。
六人家族の我が家は小さな農家で、暮らしは苦しくて三度の食事にも難儀していた。
「毎日、芋がゆばかり食べている私は貧乏人の長女。白いごはんの弁当を学校へ持って行きたい。広い家に住みたい……」等々、自分の思い通りにならないのを親のせいにしていら立っていたのだ。そのことが不満とおびえと恥ずかしさになり、中々、クラスの人たちに近寄れなくていつでも一人ぼっちだった。
次の日も先生は続きを読んでくれた。すると、白魚のような指先でめくる本の音が私に語り掛けている声に聞こえる。
「幸せは自分で探すのよ」
「はっ」とした。それからは心のもやもやは次第に晴れていくのが分かった。
「人間は気の持ちようで幸せになれるよ。父さんは戦地から無事に帰って来てくれたお陰で、家族が一緒に暮らしているのは一番の幸せではないか。親たちは生きるために一生懸命に働いている。それなのに、親のせいにしたら親不孝者になる。勇気を出して、自分からクラスの人たちと仲よくなれる努力をしよう……」と、聞いているうちに前向きな考えが芽生えていた。言ってみれば劣等感が消えて勇気がわいたのも、先生に親近感を覚えたのもこのときだった。
胸はどきどきしたけれど隣の席の由紀ちゃんに、感じたことを話してみた。
「子どもたちは苦労しているんだなあ……」
由紀ちゃんは答えてくれた。
「かわいそうな子どもたちだこと……」
わりと話しやすくて正直、ほっとした。
このことがあってから、私はその本を是非とも読みたくなった。考えた末、「先生にお願いしてみようか」と由紀ちゃんに相談したら「そうしようか」と、私の気持ちに寄り添ってくれた。
職員室に行って先生に読書をする気持ちになった理由を説明したら、代わりばんこに顔を見ながら話してくれた。
「二人とも本を読む気になってくれてうれしいよ。でも少し難しいかも……」
褒め言葉の後から一言、優しく付け加えられた。
「分からない意味は聞きにおいで……」
先生は二人の肩をぽんぽんとたたき、「どうぞ」と手渡して下さった。
夢中になって読んだ。聞くのと読むのとではひと味違い、内容に強く心を動かされる。思ったよりも楽に読めたのは多分、漢字に振り仮名が付いていたからだろうか。それとも先生に読んで頂いたあらすじを覚えていたからだろうか。最後まで読み終えた達成感は格別だった。
私をいじめる人はいなくて、「今までが思い過ごしだったかも……」すごく損をしたようで後悔していた。
先日、近所の図書館へ出向いた。棚の中から『二十四の瞳』を見付けたら心は六十数年前の歳月に逆戻りする。図書館の机で読んでいると、先生の声が聞こえる。由紀ちゃんの顔も仲よく遊んでくれたクラス全員の顔も、教室の風景もそのまんま見える。
懐かしくてたまらない。もう一つ。
「四人の子どもを大切に育ててくれた父さんと母さん。有り難う。そしてわがままを言って困らせたことごめんなさい」親たちへの感謝と詫びる気持ちで、涙ぐみそうになった。「前向きな気持ち」を教えてくれた一冊。話しても、話しても話しきれない話の本の香りは、昔も今も変わっていなかった。
心に残る本は「生涯の宝物」。そう思った。