佳作
私は父似
坂本珠恵・大阪府・56歳
林芙美子の『放浪記』は、母の愛読書だった。
貧困や飢えにもめげず、職を転々としながらも自分の信じた道を進む。その力強さ、したたかさに内気な母は惹かれたのだろう。「お芙美さんは強いなあ」と、溜め息まじりに言っていた。
勧められて私も読み出したものの、途中で投げ出した。十代だった私は苦労も貧しさもピンと来なかった。
母は私が結婚した翌年に亡くなった。『放浪記』を棺に入れたかどうか覚えていない。だが、その日から文庫本を見る事はなかった。
時が過ぎ私も親となった。一人目を無我夢中で育て、二人目の出産時、困った事態に直面した。
私の入院中に上の子を見てくれる〝おばあちゃん〟がいない。夫も仕事を休めない。
仕方なく父にSOSを発信した。仕方なくというのは、父と私は仲のいい親子ではなかったからだ。
満月を見るたび、思い出す光景がある。ランドセルを背負い、暗い道を行く小学一年生の弟と四年生の私。
泣きじゃくる弟をなだめ、その手を強く握る。無邪気に明るい月をにらみ、私はつぶやいた。
「お父ちゃんなんかいらん」
その夜、ぐでんぐでんに酔って帰宅した父は些細な事で母にからんだ。父の怒鳴り声に弟と私は目を覚ました。弟は怯えて泣き出した。
母は私達を着替えさせ、祖母の家へ行くよう泣き笑いの顔で言った。祖母の家は私の家から徒歩で十分程の所にあった。だが、あの時の心細い道のりは途方もなく長く感じた。
父の酒癖の悪さに、私達は度々泣かされた。父を憎み、父を嫌った。思春期に入ると私は火を噴くみたいに反抗した。
母が亡くなって後は、必要以外口を聞かなくなっていた。
それなのに。父の手を借りなければならないハメになった。我が子のためと父に頭を下げた。
父は私の家へ旅行鞄ひとつ持って来てくれた。掃除、洗濯、食事の用意、孫の世話。ニコニコしながらこなして行く。
「ひとり暮らししてるとな、なんでも上手になるわ」
感謝する私に父は照れながら答えた。
家事の合間に、父は一冊の文庫本を鞄から取り出した。表紙もページも黄ばんでいる。
「『放浪記』? そんなの読むんや」
「これな、お母ちゃんの本や。棺に入れたろと思うたんやけど、お父ちゃん、持っときたいと思てな」
そう言って父はページを繰った。
「お芙美さんは強いなあと、お母ちゃんがよう言うてたな」
「お母ちゃんも強かったで。お父ちゃんの好き勝手を黙って見ててくれたわ。ほんますまんと思うてる」
父は少ししんみりとし、話題を変えるように
「『放浪記』はな、ワシがお母ちゃんに勧めたんやで」
と言った。
「お父ちゃんが? 意外やな」
「ワシは読書家やで。お前が本好きなんもお父ちゃんに似たんや」
父はそういって笑った。私も笑った。私の中で何かがすっと溶けて消えた。
若い頃は父に似た所など絶対ないと思い込んでいた。思い込みたかった。
だが、年を経るごとに強くなる思いが私のうちにある。
私は父似だ。短気な所、感激屋の部分、正義感の強さ。酒癖は幸いにして受け継がなかったが。
一番のDNA、本好きは父からの贈り物だったと今さらながらに思う。
投げ出した『放浪記』に再チャレンジした。
もう少し早めにこの本を読んでいたら、父と色々語りあえたかもしれないと後悔した。
「お父ちゃんなんかいらん」と恨み節をはいた子は、父に会いたいと今、強く願うようになった。