佳作
桔梗の窓
川島悦子・群馬・47歳
いちめんの桔梗の花畑……そんな風景に、ずっと憧れていた。
だから、今の家に越してきて、庭にはじめに植えたのは、桔梗だった。
桔梗は青葉をすいすいと広げ、小さい風船のような蕾をつけ、青紫色の花を次々と咲かせた。いちめんの花畑、とまではいかないが、桔梗の花の一群れは清々しく、そこだけ空気も澄んでいるように思えた。
「これ、なんていう花?」
一緒に水まきをしながら、娘にきかれた。
「桔梗。ママの一番好きな花だよ」
「どうして、一番好きなの?」
そうきかれて、自分でも首をひねった。
きれいだから、というのなら、薔薇とかチューリップとか、ほかにもたくさんある。
なぜ、桔梗なんだろう? 理由はわからないけれど、とにかくずいぶん昔から、わたしにとって、桔梗は、特別な花だった。
すこしたったある日、娘が、国語の教科書の音読をはじめた。宿題なのだ。
「いつでしたか、山で道にまよったときの話です……」
安房直子の『きつねの窓』だ。わたしも、小学生のとき教科書で読んだはずなのだけれど、細かいストーリーはすっかり忘れていた。
音読をきくうちに、わたしの目の前に、ぱあっと桔梗の花畑が広がって見えた。いちめんの青紫の花の中に、ぽつんと立っている白い子ぎつね……でもそれは、娘の教科書の挿し絵とは、すこし違うのだ。
おそらく、わたしが小学生のときの教科書の挿し絵なのだと思う。そして、理由も忘れたまま憧れている風景は、この花畑なのだった。桔梗の花を好きな理由が、小学生のときに読んだ物語に隠されていたなんて、自分のことながら、驚いてしまった。
読みおえると、娘は早速、人さし指と親指で窓をこしらえて、のぞきだした。
「何が見える?」
「うーん、天井……」
娘は、首をかしげて、指の窓を何度ものぞいている。
小学生のわたしも、きっと、あんな風に指の窓をつくって眺めたのではなかったか。見えるのは壁や天井ばかりなのに諦めきれず、ひょっとして何か面白いもの、熱帯のジャングルや海の底の景色なんかが見えやしないかと、何度も何度も。その頃のわたしには、窓に見えてほしい人は、いなかった。大切な人をまだ誰も失っていない、幸せな子ども時代の直中だった。やがて、指の窓のことは記憶の底へ沈み、桔梗の花畑の不思議な美しさだけが、幼い心にくっきりと刻みこまれたのだ。
桔梗の、星のかたちの花びら、夜空を映したような深い青紫色。子ぎつねの野原は、やはり、桔梗でなくてはいけない。薔薇やチューリップの野原では、あまりに可愛くて華やかすぎる。
ひとりぼっちの子ぎつねの、どうにも救いようのない悲しみに寄り添えるのは、きりりと美しい桔梗の花なのだ。そして、もうこの世にはいない大切なひとに逢うには、どうしても、桔梗の花でなくてはだめだ。
それは、桔梗が、宿根草だからだ。
秋が深まり、花が枯れ葉も枯れると、桔梗は、この世界から跡形もなく消えてしまう。冬の、がらんとした野原。子ぎつねの青く染めた指もだんだん色褪せて、いくら窓をつくっても、母ぎつねの姿はぼんやりとかすんでゆく。寂しくて悲しくて、子ぎつねは、途方に暮れてしまうだろう。けれど、やがて春になると、野原には、黄緑色の芽がぽつぽつと出てくる。それはみるみる葉を広げ蕾をつけ、あの青紫の星のかたちの花を咲かせる。ぼうや、元気だったかい? また、逢いにきたよ……子ぎつねの耳には、母ぎつねのやさしい声が、ふたたび聴こえてくるのだ。
冷たい冬に消え、明るい春になるとまた現れる宿根草は、生命の蘇りの象徴かもしれない。この世にはいないひとからの、メッセージを運んできてくれるような気がする。
実家の、猫の額よりも狭い庭には、色々の花がこまごまと植わっていた。やはり宿根草が多かったのか、春になると、そこここに花の芽が出てきた。ほら、今年もあの花が咲いたね、という、母の穏やかな声。母と一緒にのんびりと庭を眺めた時間は、わたしの宝物だ。もうこの世にはない庭。もう逢えないひと。もう取り戻せない時間。
秋が深まり、わたしの庭からも、桔梗は消えてしまった。
けれど春になれば、小さな芽が現れ、美しい青葉を広げるだろう。
ほら、今年も桔梗が咲いたね……遠くからのやさしい声に耳をすませながら、星のかたちの花を、娘と一緒に、のんびり眺められたらいいと思う。