優秀賞
台所には秘密がある
荻原純子・埼玉県・32歳
台所には秘密がある。
古い食器棚の上、じゃがいもと玉ねぎの左、蜂蜜ポットの後ろ。そこに、隠れるようにして小さな本棚がある。
『白雪姫』『人魚姫』『赤毛のアン』『長くつ下のピッピ』。たった四冊だけが収められた本棚だ。
ちゃんとした大きな本棚はリビングにある。これは、私だけの秘密の本棚だった。
「何かを隠すなら台所よ」
それは祖母の口癖だった。
「絶対に見つからないの。おじいちゃんにも、あなたのママにも、誰にも絶対に」
そう言うと、祖母は人差し指を唇に当てて内緒のポーズをした。幼い私はうなずく。同じように、唇に人差し指を当てて。
「わかったよ、おばあちゃん」
それから数年後、祖母が死んだ時、私は台所のすみに丸まってぐずぐずと泣いていた。私は十二歳だった。
祖母のいない台所は、私には広すぎて寒すぎた。この世界のどこにも祖母がいない。その現実に、私はただ震えるしかなかった。
ふと、食器棚の端に何かが見えた。くすんだ原色。最初は古いアルミケースか何かだと思った。だけど違う。
ずりずりと重い身体を引きずって食器棚までたどり着く。固いガラス戸をこじ開ける。
そして手に取った。少し埃っぽい、それは本だった。随分ぼろぼろになって擦り切れ、日に焼けた本たち。それが食器棚の端で、こぢんまりと並んでいた。
「なに、これ」
ぱらぱらとめくる。見覚えがある。『白雪姫』の童話だった。次の本は『人魚姫』。その隣は『赤毛のアン』。そして『長くつ下のピッピ』。
「……私が、読んでもらった本だ」
そう。それは、私がもっとずっと小さかった頃、祖母が読んでくれた童話たちだった。
「ねえ、お話読んで。でないと寝られない」
ぐずる私に祖母が毎晩読んでくれた物語。
いつの間にかなくなっていた、捨てられたと思っていた。まじまじと本を見つめる。
ページをめくるうちに、ふと気がついた。
「ふりがなが、振ってある……」
そう、童話に綴られている漢字のほとんどに、鉛筆でふりがなが書かれていた。間違いない。祖母の文字だった。
はっとした。祖母は戦前から戦後を生きた人だった。進学は小学校まで。生活の中心は学業ではなく、農作業の手伝いだったと聞いている。生きるため、食べるために。
「あたしにゃあ、学が無いのよ」
そう言って祖母は、私の宿題すら見ようとしなかった。
「そうか……」
本を持つ手が震える。わかった。わかってしまった。
祖母は調べたのだ。辞典を使って、読めない漢字をひとつひとつ。
幼い私に、読み聞かせをするために。
「何かを隠すなら台所よ」
ひとりぼっちの台所で、祖母の言葉がよみがえった。
その通りだった。この本棚が、祖母の秘密だった。私は知らなかった。何も知ることなく、ただ祖母に読んでもらっていた。毎晩、祖母の読む声に耳を傾け、空想に遊んでいただけだった。
何も知らなかった。祖母が私に物語を読むために漢字を調べてくれたなんて、何一つ。
台所の片隅、食器棚の端っこ。祖母の秘密が、そこにはあった。
あれから二十年、私の立つ台所には秘密がある。夫にも子どもたちにも知られていない、私だけの小さな秘密だ。
古い食器棚の上、じゃがいもと玉ねぎの左、蜂蜜ポットの後ろ。
そこに隠れるようにして小さな本棚がある。たった四冊だけの本が並ぶ本棚だ。ぼろぼろになった本たちは、けれども堂々と並んでいる。ページをめくり読まれるために。
漢字にはかすれた鉛筆の文字でふりがなが振られている。
眠れない夜、私はよく台所の本を手に取り、そっとページを開く。『白雪姫』『人魚姫』『赤毛のアン』『長くつ下のピッピ』。
「おばあちゃん」
私は本へ語りかける。祖母のかすれたふりがなが、何度も何度も私を物語の先へ導いてくれた。めでたしめでたしへ続く物語だ。
台所の片隅で、本を片手に祖母の寝物語に耳を傾ける。
これは眠れない夜の、私だけの秘密だった。