家の光読書エッセイ賞
戒めの本
松岡智恵子・長野県・57歳
私はある本がきっかけで、小学校の卒業文集を捨てた。何もその本に問題があったわけではない。文集には本を読み、「その世界に行ってみたい」と、小学生らしくたわいもない感想を書いていただけだ。
問題は、私が実際にその本をよく読んでいなかったことにある。ほとんど書名しか知らない本を読んだふりをしたせいで、悔やんでも悔やみきれない事態になってしまった。その本とは『アンネの日記』である。
『アンネの日記』の名を初めて知ったのは、私が小学六年生の時だった。世間がミュンヘンオリンピック開催で騒がしい頃だ。
その頃の私は学校に行くのが苦しかった。すでに身長が百六十四センチあった私は、背が高いことにコンプレックスを抱えていた。体格がよいわりに運動はさっぱりで、取り柄もない私は心身とも縮こまり、息苦しかった。
そんななか、唯一リラックスできたのが図書館の空間だ。窓から見える信州の山並みもお気に入りだった。図書館に逃げ込むように日々通い、本に囲まれていると妙に落ち着いた。当時の図書館には、個人ごとに本の貸し借りを記す「図書カード」があった。一枚のカードには借りた本が裏表五十冊分程記されていき、履歴のように残った。カードが一杯になると、図書館の先生に新しいカードをもらいに行った。先生から、
「すごいな。もうそんなに読んだのね」
言われると、認められたようで嬉しかった。
ある時、本好きなライバルがいることを知った。私と同じクラスで、最も苦手な男子だ。私は背が高いうえに腕力もあり弁も少々立ったせいか、他の男子生徒は恐れをなして私の言いなりだった。しかしその男子は私に何を言われても気にも留めず、反対にバンバンと言い返してきた。その一つ一つが的を射ており、全く歯が立たなかった。
小学校卒業まで半年を残す頃、最後の席替えをした。席替えには多少なりとも期待や不安がつきものだ。だがその席替えは嫌な予感がしていた。案の定その男子と同じ班になり、席順も私の後ろに彼が座った。
ある日国語の授業で、『おじいさんのランプ』の作者は誰かと先生が質問を出した。先生が何人か当てたのだが、みな知らなかった。そこで先生は最後に私を当てた。先生は私が本を好きなことをよく知っていたから、自信を持たせようとの配慮だったのだろう。
だが私は思い出せなかった。内心ドキドキしながら椅子から立ち上がる時、後ろの彼から「にいみなんきち」と呟きが聞こえた。
――そうだ、新美南吉だ。
私はいかにも知っていたかのように、
「新美南吉です」
と答えると、先生は満足そうに頷いた。クラスメイトからは、「すげえ」「やっぱ文学少女」と、私を讃える声があちこちから上がった。だが私は敗北感に打ちのめされ、後ろを見ることもできず座った。
私は助け舟を出してくれた彼にお礼を言うこともなく、なぜか見返すことだけを考えた。そこで読んだ本の数だけは彼に負けないようにと、さらに本を借り出した。次第に読んでもいないのに読んだふりをするようになり、「図書カード」の枚数を増やすことが目的になっていた。その中の一冊が『アンネの日記』だった。
『アンネの日記』はユダヤ人アンネ・フランクが書いた日記だ。私は物語性が乏しい日記の類いは嫌いだったが、当時話題になっていたこともあり借りてみた。パラパラとめくると、「隠れ家」での日常や淡い思いが記されていた。彼女が日記を書いていた時代背景、なぜ「隠れ家」で過ごさなければならなかったのか、そして日記がなぜ唐突に終わってしまったのか、全く知らなかった。ただ教室でその本を読んでいた時だけ、後ろの彼が本を見て「へぇ」と反応した。少し気持ちがよかったが、結局ほとんど読まずに返却した。
いよいよ卒業文集を書く季節になった。文集には各自の作文の他に、班ごとに生徒が寄せ書きをする欄があり、私たちの班は「行ってみたい世界」をテーマにした。
「新美南吉」のことがあって以来、私の中で彼は一目置く存在になっていた。その彼が「へぇ」と驚く本なら、きっとすごいのだろうと思い込んだ。そして確かめもせず、私は『アンネの日記』の世界に行ってみたいと書いていた。私は彼と肩を並べたかったのだ。
それがどんなに恐ろしい世界かを知ったのは高校生の時だった。私はその真実を知った時、あまりの恥ずかしさに卒業文集を捨てた。
今でも『アンネの日記』を耳にする機会がある。その度に私は胸の奥がチクチクと痛む。文集を捨てたからと言って、書いた事実は消せない。書いてしまった後悔、あの頃の窮屈な毎日、思春期の複雑な気持ちがよみがえる。
そしてこの本は、読んだふりをすることがどれだけ愚かで恥ずかしいことになるか私に知らしめた、戒めの本になっている。