佳作
一冊の本から
グレアム 明美(ぐれあむ・あけみ)・イギリス・60歳
それは、小さなパンジーの花束だった。花屋さんからのものではなく、自分で束ねたとわかる、不器用な暖かさに包まれていた。エヴァがそれを無造作に私に差し出した。春まだ浅い三月初旬、ロンドンに暮らす私が、英国人の夫とポーランドの古都、クラクフ空港に降り立った時のことだった。
私は十五歳頃から五年ほどポーランド人女性ニナと文通をしたことがあった。いわゆるペンパルだ。四十年も前のあの頃はそんなことがあったものだ。中学の課題図書で読んだ『アンネの日記』の感想文を書き送ったことから、同じ本の感想を書いたニナと知り合ったのだった。ニナは二つ年上で、とても上手な英語を書いた。そして筆まめであった。私達はティーンエイジャーらしく、ありとあらゆることを話した。私は日本語では言えないようなことも、ニナには躊躇なく話すことができた。勿論あの頃の自分の英語力を思うと私の意図がどれだけ伝わっていたのかは甚だ疑問だ。たくさんの文通の中でも一番思い出深いのは、私達の出会いのきっかけとなった『アンネの日記』に関する書簡だった。私はニナに薦められて英語版を読んだ。高校生になっていた私は、改めてアンネの短い生涯に言葉では言い表せない衝撃を受けた。自分と年端の変わらぬアンネの隠れ家生活、家族との摩擦、幼い恋、理由なきユダヤ人迫害、希望と絶望。自分の住む世界からは想像もできない、現実がそこには間違いなくあったのだ。そしてそれを書き記した少女がいた。ニナも『アンネの日記』には深い思い入れがあった。「自分もユダヤ人だから」との一文を私はあの時、どれだけ理解したろうか? 本の中のアンネが現実に私と文通をするニナに置き換わり、凄い力で私の精神空間に押し寄せて来た。今まで楽しいものであった読書とは全く違った本の力に私は圧倒された。ニナとの文通は自然と間隔が空いていき、やがて途絶えてしまった。お互いに二十代以降は、遥か彼方の見ず知らずのペンパルに手紙を認めるより、抗(あらが)うべき人生の波に揉まれて過ごした。ニナからの突然の手紙が日本の母から送られてきたのが三年前のことだった。そして私達はまたペンパル、いやメル友に戻った。
主人も私も長年、一度はアウシュビッツを訪れたいと思っていた。「クラクフに行くなら、友人のアパートが空いているから、そこを使って。空港には、カーシャという別の友人が迎えに行って、アパートの鍵を渡すようにするわ」。すべてのお膳立てがニナによってあっという間に整ってしまった。実は私は不安だった。会ったこともない人の家に泊まる? もしカーシャが空港に現れなかったら……? しかし、私の杞憂(きゆう)はパンジーの花束で跡形もなく消え去った。
カーシャの英語はたどたどしかった。エヴァはカーシャの娘だった。市内のアパートへ到着した後、カーシャとエヴァは早速私達に、市電の乗り方、切符の買い方などの実地訓練を始めた。クラクフは第二次世界大戦の戦禍を免れ、ユネスコにより世界初の「文化遺産」に認定された街である。その中心のマーケット・スクエアには、美しい教会がそびえ、私達を歓迎するかのように、午後の鐘を賑やかに鳴らしていた。「自分達だけで大丈夫だから」という私達の言葉を「ノー、ノー」と片手で遮り、カーシャとエヴァは翌日も、クラクフの観光案内を買って出た。
旅のハイライトであるアウシュビッツへは、私達だけで出向いた。強制収容所の敷地に降り立った時の、あの凍てつくような風の冷たさを私は生涯忘れることがないだろう。歴史の教科書の中のアウシュビッツが、現実のアウシュビッツとなって心に刻まれた。私達のガイド付きのツアーがちょうど終わる頃、ポーランド語の口論が聞こえてきた。ガイドによると、常識はずれの多大なチップをあげようとするアメリカ人に、ガイドのポーランド女性が怒っているとのことだった。見るともなしにその女性を見ると、それはカーシャだった。しばらくして興奮の収まった彼女が私達のところに来た。「私はあなた達に、ここを自分達の目で見て欲しかったの。だから案内を申し出なかった。でも急に頼まれて今日ここに来たの。常識はずれのチップは屈辱よ。私の最愛の人がここで亡くなったわ」。普段は明るい彼女が、しんみりした口調で言った。
二日後、空港まで送ってくれたカーシャは、別れ際に強く私達を抱きしめた。「セイムハート」と何度も言って、人差し指を自分と私たちの胸に当て微笑んだ。「人種など関係ない。みんな同じ人間だものね」と言いたかったのだろう。私達の旅は、クラクフの美しさだけでなく、優しさと厳しさ、誇りと自負を、身をもって示したカーシャのお陰で、特別なものとなった。大昔に出会った一冊の本が生み出した不思議な縁の繋がり。私の手元には今でもあの『アンネの日記』が大切に置かれている。