• 家の光協会が開催する
  • さまざまなコンテストや
  • 地域に読書の輪を広げる
  • ための講座等を紹介します

一般社団法人 家の光協会は、
JAグループの出版文化団体です。

墨入り『嵐が丘』と父の愛 _読書エッセイ

佳作

墨入り『嵐が丘』と父の愛

吉川弘子・東京都・54歳

 物心ついた頃から、父からのプレゼントは本と決まっていた。
 誕生日の朝目覚めると部屋の中がなんだか暗い。枕元にどーんと積まれたダンボールの山が朝の光をさえぎっているのである。かわいい包装もリボンもないダンボール箱。中にはぎっしりと本がつまっている。『浜田広介童話全集』にはじまって『少年少女世界文学全集』、世界の偉人伝に世界民話集等々。外遊びが苦手で本が一番の友達だった私は、次々と読破していった。そして十歳の誕生日、私は生涯忘れ得ない衝撃のプレゼントをうけとった。その朝いつもどおりダンボールが積まれていることを期待して目を開けると、あれ、ない? 枕元には朝日がさしている。見回すと本棚から『少年少女世界文学全集』が消え、替わりに臙脂(えんじ)色の背表紙の『世界文学全集全五〇巻』がどっかーんと並べられていた。
 おお、タイトルに少年少女がついてない!
 胸が躍った。『嵐が丘』『赤と黒』『緋文字』『カラマーゾフの兄弟』……さすが大人小説や。『ガリバー旅行記』なんかと違って題から中身全然わからへん……。感心しながら私は、以前少女雑誌で漫画化されたものを読んだことがある『嵐が丘』を手にとった。どきどきしながらページを開く。新しい紙の匂いを胸いっぱい吸い込みつつ、目を落とす。と、なんとそこにはべったりと墨が塗られているではないか。終戦後教科書の都合の悪いところを墨で消していったというが、まさにそういう感じで文の途中があちこち消されている。他の巻を開いてみた。すべて墨の伏せ字だらけだった。
 どういうことなのよ。おとーさん。
 問い質そうと階下に降りていくと、父は仕事にでかけていて、母が代わりに答えてくれた。
「あー、それはあんたに読ませたくないところ消したんだわ」。母は苦笑しながら、「大人の小説はまだ早いかなって迷ってたのよ。だけどあんたは子供向きの全部読んじゃったからね。読ませたくない部分は消して渡すことにしたんだって」

 私はあきれた。しかし感動もした。忙しい仕事の合間を縫って全五十巻に目を通し墨をいれるのは大変な作業だろう。父は少なくとも半年以上前から準備していたと思われた。その行為は愛以外の何物でもなかろう。子供心にもそれはわかったので、私は文句をいわずに墨部分は自分で創作して読破してやろうと決心したのだった。
 消されていたのは官能シーンや残酷な場面、反社会的表現と推測されたが、大人の小説というのは官能と残酷さと反社会性をとってしまうとほとんど何も残らないのである。早熟といっても小学生の想像力には限界がある。『ボヴァリー夫人』など墨部分が多すぎてストーリーすらつかめなかった。そんな中でなんとか読み進められたのは『嵐が丘』だった。漫画版で予備知識があったおかげでなんとか墨部分を想像できた。私は墨で消されたヒースクリフとキャサリンの抱擁や醜いののしりあい、墓を暴く恐ろしい場面を創作していった。読む度にストーリーは更新され『嵐が丘』は私だけの『嵐が丘』になっていった。
 この調子で全巻読み進めれば今頃いっぱしの文学者になっていたかもしれないのだが、中学、高校と進むうちに私は本よりも楽しいこと、恋愛や映画や音楽にめざめ、全集を開くことは少なくなっていった。父も全五十巻の墨入れに懲りたのだろう。以後プレゼントは美術全集など図版中心のものに変わっていき、父娘の会話も減っていった。
 そんなある日、大学生になった私は古書店で『嵐が丘』に出合った。もちろん墨のはいっていない完全版である。早速買い求め読んだ。子供の頃の想像と同じ部分もあれば違う部分もあったが夢中で読み終えた。それから無性に墨入り『嵐が丘』が読みたくなった。私は帰省する度に文学全集を開くようになった。墨の部分をみているとその時々の心のあり方でまったく違う言葉が浮かんできて飽きない。優れた文学作品は墨消し部分があっても人の想像力を心地良く刺激してくれるのだろうし、消されているからこそより想像力が刺激されるのだろう。 結婚して子供ができて忙しくなってからも時間ができたら全巻読み返して、父とその話をしようといつも思っていた。しかし、阪神大震災で実家は全壊し全集はがれきとともに消え、父もまもなく亡くなった。
 父が私に残してくれた最大の贈り物は読書の醍醐味だったのだと思う。映画もコミックも面白い。しかし想像力をフルに発揮して一行の文章、行間から作家とともに物語の世界をつくりあげていくことに関して読書にまさるものはない。それを教えてくれたのが父の墨入り文学全集だったのだ。
 お父さん、本当にありがとう。

ページトップへ