家の光読書エッセイ賞
ちいさいおかあさん
大橋裕子・東京都・48歳
ちいさい ちいさい 人でした
ほんとに ちいさい 母でした
それより ちいさい ボクでした
おっぱい のんでる ボクでした
かいぐり かいぐり とっとのめ
おつむてんてん いないないバア
「おかあさん、もう一回読んで」
熱を出し真っ赤な顔をした幼い私はそう言って何度もこの詩を母に読んでもらった。
私が幼少の頃、それは高度成長期真っ只中であった。縫製業を営んでいた我が家では母は工場の一番の働き手を担いながらの私たちの「母親」であった。私の 記憶にある限り母は朝から晩まで、それこそ寝る間もなく大変忙しかった。だから私が物心付いた頃から母と一緒に寝ることなどほとんどなかった。
未熟児寸前で生まれたせいか私は四,五才頃まで身体が弱く、冬には必ずといっていいほど風邪をこじらせていた。そしてその時だけは母はどんなに忙しくても私の枕元で私が眠りに就くまで詩を読んでくれたのだ。
「まだ、先があるわよ」
膝の上に置いたサトウハチローの詩集から顔を上げ母は私を見る。
「ううん、そこをもう一回」
布団を鼻先まですっぽりとかけられた私がくぐもった声で母にそうねだると、
「はい、じゃあもう一回ね」
と、母は布団の上からポンポンと優しく私の身体をたた叩きまた最初から『ちいさいおかあさん』の詩を読み始める。
隅に置かれた石油ストーブが部屋を茜色に染め、その上ではやかん薬缶がシュンシュンと鳴っている。その音を伴奏にして母の声を聞いているうちに詩の中の ちいさいボクはいつしか私になり、母に優しくあやされているように夢の中へと入っていった。忙しい母の精一杯の愛情を感じていた瞬間であった。
そんな若い時からの無理がたたったのだろうか、六十歳を少し超えた頃から母は急激に体調を崩してしまった。真っ白な病院のベッドに横たわる母は私が記憶 しているよりもずっと小さくなっていた。その様子に私が家を出て以来きちんと母に向かい合っていなかった年月の長さを後ろめたさと共に痛感させられる。
「おかあさん、もっと早く連絡してくれたらよかったのに」
少し照れながら、持って来た母の大好きなひまわりの花を花瓶に挿す。
「あんたも忙しいでしょう、大丈夫だったのに」
微笑む母は病床に就きながらもなお私の心配をしているのだ。
やがて入院が長引くにつれ、そんなやり取りでさえも出来なくなっていった。気が付けば母はただ枕に沈んだ頭を左右に振ったり上下に振ったりするように なっていった。すでに声を出すことさえしんどいようだ。ますます薄くなっていく布団の膨らみに胸が詰まる。 私は枕元に座り、母が返事をしないで済むよう に一人で取り留めの無い事を喋っていた。
そんな何週間かが緩やかに流れていった。いつしか話すことも尽きぼんやりと母の横顔を眺めていた時のことであった。何故かあの懐かしいサトウハチローのおかあさんの詩が頭に浮かんだ。
「ちいさい ちいさい 人でした
ほんとに ちいさい 母でした
それよりちいさい ボクでした・・・・
確かこういう始まりだったよね、思えばおかあさんによ~くこの詩を読んでもらったっけね」
と私が笑いながら母の顔を覗くと、こちらを眩しそうに見ながら僅かに首を縦に振っている。その口元は優しく微笑んでいる。久し振りに見る穏やかな母の笑顔 であった。私は嬉しくて『ちいさいおかあさん』の詩を繰り返し口ずさんでいた。あの頃せがむ私に母がしてくれたように何度も何度も。静かに目を閉じた母の 瞼の裏には三十歳をとうに越えた私ではなく顔を真っ赤にした幼い私が見えているのかも知れない。
ふと気が付けば長い夏の日もすっかり暮れ、窓外は暗闇に包まれていた。私は“また明日来るからね”と寝ている母に心で声を掛け椅子から立ち上がる。する とその気配を感じたらしく母はそっと目を開け僅かに唇を動かした。
「ありがとう」と・・・。
そして翌朝、母は一人で静かに旅立っていった。あれから幾夏が過ぎたのだろうか。
今年のようにいつまでも暑い夏のことであった。